「もう大人しくしてたらいいのに?いいおじいちゃんなんだから。仕方ない旦那さんだ」
わたしの報告に呆れ顔。口喧しい妻にはもう慣れっこ。それでも今回は的を射ている。後期高齢者までカウントダウン。なにをするにしても、これまで以上に難しくなる。
「それに時代が違うのよ。現実を見なくちゃ」
妻の言い分はよく分かる。ただ私の夢を完全否定する権利は誰にもない。勿論妻だって。
演劇青年だった。アマチュア劇団華やかなりし時代、やがてアマチュア劇団を自ら旗揚げする程のめり込んだ。
物心つくとともに自覚した、酷過ぎる人見知りな性格。誰かと話そうとすれば、赤面し言葉に詰まってしまう。社会への適応に四苦八苦するわたしの駆け込み寺になってくれたのは。アマチュア演劇の世界だった。
作者が作りだしたセリフを丸覚えで話す、メークを施した顔は赤面してもバレない、私が抱える難題は見事に解消した。考えたこともなかった未来を、いとも簡単に与えてくれた演劇のすごさ。のめり込んでしまうのは当然といえば当然だった。
演劇は私に生きるすべと、その延長で妻を、家族を与えてくれた。叶うはずのなかった夢を現実にしてくれた演劇は、もはや人生そのものといえた。
「結婚したら、どちらかが動けなくなるまで演劇を続ける!それがわたしたちの結婚」
劇団で出会い、ともに演劇の世界を走りぬいた十三歳年下の妻と結婚する際の約束だった。演劇あっての結婚、今思えばかなり現実離れした誓いである。しかしわたしと妻は真剣そのものだった。あの当時は……
結婚して子供を授かると、その誓いはあっさりと反古同然となった。子育てと家事、そこに必要なお金。ロマンチックな夢や誓いなど入り込む余地のない現実。
四人の子供が巣立つと、妻が始めたのは野菜作り。より安全な有機野菜を育て、子供や孫に食べさせようという、より現実に即した夢だった。「どちらかが欠けるまで演劇をしよう!」なんて近いは。もう絵空事に追いやられてしまった。
子供らのために安全安心な有機野菜を作ることに異存はない。喜んで妻に従った。畑を耕し、野菜の収穫を喜ぶ日々を送る。
しかしなにか違和感に付きまとわれた。そう、目の前にあったのは無味乾燥そのものの現実だけだった。人生のパートナーである演劇はどこに行ってしまったのだろう。そう考え始めるといてもたってもいられなくなった。
「おい、紙芝居やるぞ」突拍子もないわたしの宣言を、妻は即座に笑い飛ばした。「無理無理、そんな夢みたいなこと出来ないよ」
「そう!俺の夢や。いくら年取っても、夢見てもええやろ」
真剣な口調に、妻は口を閉じた。
定年でできた余裕時間を使い、紙芝居の練習を始めた。必要な舞台や作品はネットで購入した。
「勿体ないよ、無駄使いじゃん」
妻の猛反対に聞く耳は持たなかった。(僕はやる!人生の集大成である馬鹿な夢の実現や!)演劇と紙芝居、似ても似つかない別物だと理解していても、一人でやれることは他に思いつかない。人生のパートナーである妻のサポートは期待できないのだから。
地元のイベントに紙芝居で参加できるよう担当部署に足を運んだ。市内のモールの事務所にも頼み込んだ。気分も驚く行動力だった。
「紙芝居をボランティアでやっています。紙芝居をやる場を頂けませんか」
アマチュア劇団活動に夢中だった青春回帰といえた。自分の夢の実現に恥も外聞もない。ただ思いを相手に届けるだけの無欲な行動。
「地元の人やし、一度キッズイベントのプログラムでやって貰ってもいいかな」
モールの担当者は熱意を受けいれてくれた。そして地元のイベントにも参加が決まった。人生最後の夢実現に向けた第1歩である。
「もう呆れたひとなんやから。もう恥ずかしいやろ」イベント参加決定の報告に妻は呆れたが、なんと状況は大きく変わった。
紙芝居の稽古や演出上の作り物に夢中になっていると、顔を覗かせた妻が手伝い始めた。
「お前忙しいやろが」
「ほっとけないの。旦那さんが懸命なのに」
その言葉で私は理解した。結婚時に誓いあった夢が始まったのを
モールのイベントで「おむすびころりん」「おおきなかぶ」を上演した。タダの紙芝居に終わっては、アマチュア演劇に打ち込んできたものとしては物足りない。観客の子供を引き込む演出を加え、紙芝居も演者のパfォーマンスを取り入れた。保育士経験者である妻の手遊びなども披露、子供に大受けだった。
「次はふるさと話を作るか?」「ええなあ」
有機野菜の収穫をしながら夫婦の話題はひとつ。長い時を経て夫婦の夢は花開いた。