「お父さん。征夫らが帰って来るまでに、機嫌あんじょう直しといてや。せっかく顔見せてくれたんやから、今夜はご馳走作るでな」
兼子は、いつになく高ぶっている。
「煙草買うて来る」
伝吉は一層無愛想になるばかりだった。
雨上がりの道は心地好かった。周辺は未だ開けていない田舎だけに、あのうるさい車も余り通らなくて尚更気持ちが好いのだ。
家から三百メートル程行った所に、村で唯一の雑貨店がある。食料品も少し置いてあるので、ちょっとした時に重宝な店だ。店先にはちゃんと自動販売機も並んでいる。
伝吉は煙草の販売機の前に立って、やっと気が付いた。販売機の前に置かれてあるベンチで、赤ん坊をあやしながら煙草を喫っている若い母親がいる。理代子だった。
「あ?」
理代子も直ぐに気付いて声を上げたが、別に狼狽する風もなく、えらく落ち着いたままだった。どうも可愛げがなさ過ぎる。
「あの…」
「いや、煙草切らしたんでな。ちょっと買いに出て来たんや…」
伝吉の方が逆に狼狽えていた。顔が赤くなり、しどろもどろに、しなくてもいい弁解をするはめに陥った。
「あんたら、役場へ行ったんじゃなかったんか?」
「この子を連れてじゃ大変だからって、あの人がひとりで行ってくれたんです」
「そやったんか。それやったら家の方で待っとったらええやないか」
「……でも」
理代子が言葉に詰まったのを見て、伝吉は兼子の皮肉を思い出した。プリプリ怒ってばかりの伝吉のそばではさぞ肩身の狭い思いをしなければなるまい。
理代子が片手で支えるように抱っこしている伝太がむずがり始めた。伝吉は反射的に両手を差し出していた。
「わしがかわったろう」
「すみません」
理代子は伝吉に赤ん坊を預けたので、ホッとした表情で煙草をくゆらしている。自然な喫煙姿に伝吉は感心しながらも、出来るだけ目を逸らせた。むずがるのを止めない孫の伝太をあやすのに夢中にならざるを得なかったし、女性の喫煙に馴れてもいなかったからだ。
赤ん坊を抱くなど、もう五十年以上のご無沙汰である。伝吉はぎごちなくて危なっかしい手付きながら懸命だった。思うようにならない相手だが、不思議に腹は立たない。
(これが俺の孫か。ほら、おじいちゃんたで)何度も腹ん中で赤ん坊に自己紹介をする自分に思わず苦笑した。照れ臭くて声は出せない。
「優しいんですね…征夫さんとよく似てる……そっくり…」
「え?」
伝吉は訊き損なったので、慌てて理代子を見返した。はずみで赤ん坊を抱いた手に力が入り過ぎてしまい、伝太は急に泣き出した。
「あ、かわります、わたし。はい、伝ちゃん、お母さんでちゅからね」
さすが母親である。手慣れていて、さしもの赤ん坊もすぐに大人しくなった。
「こりゃこりゃ、わしも嫌われたもんやのう」
「そんなことないですよ。まだ慣れてないだけですから……おじいちゃんに…」
理代子が初めてクスリと笑った。ちゃんと魅力的な笑顔を持っているのだ。
伝吉は理代子に心を開きかけている自分に気付き、少しばかり驚愕したけれど、すぐに平静を装った。ニコニコ顔になって理代子を見た。
そんな伝吉に理代子は饒舌で応えた。打ってかわる明るさで、征夫との生活ぶりや、理代子自身の故郷や家族についても話した。
伝吉は理代子が人前であまり笑顔を出せないでいる理由を知った。長い年月を通じて自然と身に備わった自己防衛だったのである。
理代子は和歌山の漁師の家に生まれている。四歳の時、不幸にも大きな台風の直撃で父親の船は沈み、両親と兄弟を一度に失っていた。
幼いころからひとりぼっちで、親戚をたらい回しされているうちに、自分の意志と言ったものを出さないほうが無難なのを覚えたのである。
「私って誰からも嫌われてたんですよ。とても意地が悪くて…暗い性格だったから……」
理代子は、まるで他人事のように喋った。
「…そんな私を…征夫さんは……掬ってくれた…!」
急に理代子の顔が歪んで、言葉は詰まった。
伝吉は理代子が嗚咽する姿に、なす術もなく、ただじっと見守るだけで精いっぱいだった。
征夫が帰って来るのを待つと言う理代子を残して、伝吉は先に家へ戻った。
「どうしたんやね。ニヤニヤして…気色悪い」
伝吉の顔を見た兼子は訝しげに訊いた。
「ええんやええんや。それより晩のご馳走の用意は出けとるんか?あいつら、もう帰ってきよるやろが」
「あほらし。どないな具合やいな」
同じ皮肉を言っても、今はやけに明るい。伝吉の態度から何かを感じ取ったからだろう。兼子は夫の心のうちはちゃんと見透かせるのだ。
「さあ、急いで作らななあ」
「よっしゃー!わしもちょっくら手伝うかいのう」
「ほんま嵐でも来よるがな」
兼子は軽口を叩きながら台所へ急いだ。
「おい。わしもおじいちゃんやど!」
伝吉ははしゃぎ声で後に続いた。
(こりゃ、どないあいつらが反対したかて、ちゃんと結婚式挙げたらなあかん。娘がでけるんや。孫を連れて来てくれおった娘や。花嫁姿になったら、そら綺麗やで、間違いあらへん!)
伝吉はとめどもなく幸せを感じていた。
(完結)(1992年5月2日神戸新聞掲載)
兼子は、いつになく高ぶっている。
「煙草買うて来る」
伝吉は一層無愛想になるばかりだった。
雨上がりの道は心地好かった。周辺は未だ開けていない田舎だけに、あのうるさい車も余り通らなくて尚更気持ちが好いのだ。
家から三百メートル程行った所に、村で唯一の雑貨店がある。食料品も少し置いてあるので、ちょっとした時に重宝な店だ。店先にはちゃんと自動販売機も並んでいる。
伝吉は煙草の販売機の前に立って、やっと気が付いた。販売機の前に置かれてあるベンチで、赤ん坊をあやしながら煙草を喫っている若い母親がいる。理代子だった。
「あ?」
理代子も直ぐに気付いて声を上げたが、別に狼狽する風もなく、えらく落ち着いたままだった。どうも可愛げがなさ過ぎる。
「あの…」
「いや、煙草切らしたんでな。ちょっと買いに出て来たんや…」
伝吉の方が逆に狼狽えていた。顔が赤くなり、しどろもどろに、しなくてもいい弁解をするはめに陥った。
「あんたら、役場へ行ったんじゃなかったんか?」
「この子を連れてじゃ大変だからって、あの人がひとりで行ってくれたんです」
「そやったんか。それやったら家の方で待っとったらええやないか」
「……でも」
理代子が言葉に詰まったのを見て、伝吉は兼子の皮肉を思い出した。プリプリ怒ってばかりの伝吉のそばではさぞ肩身の狭い思いをしなければなるまい。
理代子が片手で支えるように抱っこしている伝太がむずがり始めた。伝吉は反射的に両手を差し出していた。
「わしがかわったろう」
「すみません」
理代子は伝吉に赤ん坊を預けたので、ホッとした表情で煙草をくゆらしている。自然な喫煙姿に伝吉は感心しながらも、出来るだけ目を逸らせた。むずがるのを止めない孫の伝太をあやすのに夢中にならざるを得なかったし、女性の喫煙に馴れてもいなかったからだ。
赤ん坊を抱くなど、もう五十年以上のご無沙汰である。伝吉はぎごちなくて危なっかしい手付きながら懸命だった。思うようにならない相手だが、不思議に腹は立たない。
(これが俺の孫か。ほら、おじいちゃんたで)何度も腹ん中で赤ん坊に自己紹介をする自分に思わず苦笑した。照れ臭くて声は出せない。
「優しいんですね…征夫さんとよく似てる……そっくり…」
「え?」
伝吉は訊き損なったので、慌てて理代子を見返した。はずみで赤ん坊を抱いた手に力が入り過ぎてしまい、伝太は急に泣き出した。
「あ、かわります、わたし。はい、伝ちゃん、お母さんでちゅからね」
さすが母親である。手慣れていて、さしもの赤ん坊もすぐに大人しくなった。
「こりゃこりゃ、わしも嫌われたもんやのう」
「そんなことないですよ。まだ慣れてないだけですから……おじいちゃんに…」
理代子が初めてクスリと笑った。ちゃんと魅力的な笑顔を持っているのだ。
伝吉は理代子に心を開きかけている自分に気付き、少しばかり驚愕したけれど、すぐに平静を装った。ニコニコ顔になって理代子を見た。
そんな伝吉に理代子は饒舌で応えた。打ってかわる明るさで、征夫との生活ぶりや、理代子自身の故郷や家族についても話した。
伝吉は理代子が人前であまり笑顔を出せないでいる理由を知った。長い年月を通じて自然と身に備わった自己防衛だったのである。
理代子は和歌山の漁師の家に生まれている。四歳の時、不幸にも大きな台風の直撃で父親の船は沈み、両親と兄弟を一度に失っていた。
幼いころからひとりぼっちで、親戚をたらい回しされているうちに、自分の意志と言ったものを出さないほうが無難なのを覚えたのである。
「私って誰からも嫌われてたんですよ。とても意地が悪くて…暗い性格だったから……」
理代子は、まるで他人事のように喋った。
「…そんな私を…征夫さんは……掬ってくれた…!」
急に理代子の顔が歪んで、言葉は詰まった。
伝吉は理代子が嗚咽する姿に、なす術もなく、ただじっと見守るだけで精いっぱいだった。
征夫が帰って来るのを待つと言う理代子を残して、伝吉は先に家へ戻った。
「どうしたんやね。ニヤニヤして…気色悪い」
伝吉の顔を見た兼子は訝しげに訊いた。
「ええんやええんや。それより晩のご馳走の用意は出けとるんか?あいつら、もう帰ってきよるやろが」
「あほらし。どないな具合やいな」
同じ皮肉を言っても、今はやけに明るい。伝吉の態度から何かを感じ取ったからだろう。兼子は夫の心のうちはちゃんと見透かせるのだ。
「さあ、急いで作らななあ」
「よっしゃー!わしもちょっくら手伝うかいのう」
「ほんま嵐でも来よるがな」
兼子は軽口を叩きながら台所へ急いだ。
「おい。わしもおじいちゃんやど!」
伝吉ははしゃぎ声で後に続いた。
(こりゃ、どないあいつらが反対したかて、ちゃんと結婚式挙げたらなあかん。娘がでけるんや。孫を連れて来てくれおった娘や。花嫁姿になったら、そら綺麗やで、間違いあらへん!)
伝吉はとめどもなく幸せを感じていた。
(完結)(1992年5月2日神戸新聞掲載)