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(築地本願寺)
少し寄り道をして、本願寺築地別院行く。
東京に50年余も住んでいるのに、
築地本願寺に入ったのは今回が初めてのこと。
築地本願寺は京都の浄土真宗本願寺派の東京別院として立てられたが、
関東大震災で倒壊後、
インド様式によるエキゾチックな石造りの建物が作られたという。
築地本願寺に寄ったのには、二つの理由があります。
一つは、我が家の宗派が浄土真宗西本願寺であること、
今ひとつの理由は、忠臣蔵の赤穂義士の一人、間新六供養塔があり、
さらに芭蕉の句碑があることを知っていたからです。
門には「築地本願寺」と書かれており、門の内側は広場になっている。
広場の向こうに、説明した石造りの堂々とした建物が居座っている。
入り口の守衛さんに「お墓は何処にありますか」とお訪ねすると、
「ここにはお墓はありません。納骨堂はありますけど」の答え。
しかし、中央区の文化財マップには、日本画家の酒井抱一、間新六、
佃島の名主 森孫右衛門の供養塔があることが記載されている。
(築地本願寺の入り口)
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「ありがとう」とお礼を言って、広い本堂前の広場を探して、
お墓のありそうな場所に検討をつける。
門を入って左手に、少し林があって、石碑らしきものが見える。
見当をつけて林のほうへ行くと、やはり供養塔があった。
ボクの好きな日本画家 酒井抱一供養塔があった。
酒井抱一について、
(酒井雅楽頭(うたのかみ)家の姫路藩主 酒井忠仰(ただもち)の
次男として生まれ、明和四年(1767)忠因(ただなお)と名乗る。
大名家の習いとして、武術、絵画、俳諧、狂歌などに親しむ。
寛政九年(1797)、37歳で西本願寺 文如上人に随い出家し、
「東覚院文詮暉真」と称します。
浅草千束に移住し、抱一と号します。
抱一は寛政年間後半ころから尾形光琳の画風に傾倒し、
文化12年(1815)には、移り住んだ下根岸の新居(後の雨華庵)で、
光琳の百回忌を営みました。
抱一は琳派の画風に諸派の技法を取り入れた独特の作風を確立し、
粋で瀟洒な江戸琳派を完成させます。代表作として
「光琳百図」「四季花鳥図屏風」「夏秋草図屏風」などを残しています。
文政11年(1828)根岸(現台東区)の雨華庵で没し、
築地本願寺に葬られました。)(東京都教育委員会)とある。
(酒井抱一の墓)
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(抱一の日本画「夏秋草図屏風」の一部(我が家の壁にかけてある)
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その隣に佃島の名主 森孫右衛門の供養塔があり、
さらにその隣に、赤穂浪士の間新六供養塔がある。
間新六について、
(間新六光風(1680~1703)は赤穂藩主浅野家臣間光延の次男として生まれ、
元禄14年(1701)三月藩主浅野長矩が殿中刃傷事件を起こし、
藩は改易となります。
新六は父及び兄光興とともにあだ討ちに加わり、元禄十五年12月14日
(1703年1月30日)に吉良上野介を討ち取り、
麻布の長府藩毛利邸へ預かりとなる、切腹します。
赤穂浪士の墓は主君長矩の墓のある泉岳寺にありますが、
新六は義兄中堂又助により、築地本願寺に埋葬されました。
泉岳寺にも供養塔はありますが、
本願寺に葬られた理由は、檀徒であったのか、
生前の意志によるものか不明です。)(東京都教育委員会)とある。
(森孫右衛門の供養塔)
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(間新六の供養塔)
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(芭蕉句碑)
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その横に、芭蕉句碑があります。
風雨に曝され文字が見えなくなっていますが、
説明では、
・ 春もやや 景色ととのふ 月と梅
築地本願寺はインド風の建物というが、インドでは仏教人口はたった2%であり、 残りがヒンズー教と言うから、
どちらかというとヒンズー教寺院といったほうが正しいのかもしれない。
インドを訪ねた時、道路を我が物顔で歩く牛、
駅構内のホームには良く反芻された牛の落し物が、至る所に落ちており、
踏まないように、ガイドさんから注意があった。
ヒンズー教では牛は神の使いとして、大事に扱われている。
道路を歩く牛を、車は避けて通らなければならない。
(石造りインド洋式の築地本願寺)
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(インドの石造りの寺院)
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(インドの石造りのフマユーン廟)
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それでは築地本願寺の中へ入ってみましょう。
石段の階段を登り本堂に入る。
左右に下りの階段があり、
階段手すりに石の彫り物―牛、馬や獅子が置かれている。
(牛の彫像)
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(馬と獅子の彫像)
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中は広い畳敷きの部屋があるかと思ったが、
意外にも、沢山の椅子が正面の祭壇に向って並べてある。
ヨーロッパのカトリック教会の中に入ったようであった。
(きらびやかな祭壇)
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(きらびやかな祭壇2)
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