(昭和通りの交差点)
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(浅野内匠頭終焉の場所と芝大神宮と西應寺)
忠臣蔵の47士は、今の築地駅から昭和通りを左折して、
新橋駅の左横を通り、第一京浜国道を進み泉岳寺に向った。
昭和通りに入って、すぐの露地に「木挽町 砂場」有名な蕎麦屋さんがあるが、
その前の通りに、歌にある「銀座の柳」を思い浮かべさせる、
柳の並木が何本も見える。
(木挽町砂場の看板と銀座の柳?の並木)
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さらに進むと、晴海通りに出て、(三原橋)の交叉点に出るが、
この信号を渡り終えて振り返ると、
最近新築したはずの歌舞伎座が見える。
新しくなった歌舞伎座は、正面入り口部分は昔のままで、
後方に聳えるビルが今度新しくなったものである。
(三原橋交差点)
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(三原橋交差点2)
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(歌舞伎座の正面入り口)
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道路を道なりに進むと、左折は品川方面の案内標識があるので左折し、
第一京浜国道へ入っていく。
新橋駅を過ぎて新橋五丁目の信号を右折し、
日比谷通りに出たところの信号を右折すると、
目の前の歩道上に「浅野内匠頭終焉の地」の石碑と説明板がある。
(左折品川方面の案内標識)
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(新橋五丁目信号)
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(浅野内匠頭終焉の地)
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「旧田村右京太夫の屋敷跡にして、元禄14年3月14日に、
浅野内匠頭自刃せし所なり。」とあり、辞世の歌が記されている。
有名な辞世の歌は、
・ 風さそう 花よりもなお 我はまた
春の名残を 如何にとやせん
とある。
(浅野内匠頭の辞世)
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元来た道、第一京浜に戻り「新橋五丁目」交差点を右折し進むと、
右手に芝大神宮の石碑が見える。
ここは「め組」の辰五郎と力士の喧嘩で有名(*)で、
め組の狛犬が芝大神宮の社殿前にある。
(芝大神宮の石柱)
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(芝大神宮の鳥居)
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(め組の狛犬)
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(*)(喧嘩のあらすじは、芝神明境内で開催中だった相撲の春場所を、
め組の鳶職・辰五郎と長次郎、その知人の富士松が無銭見物しようとしたのが発端。
芝神明宮界隈はめ組の管轄であり、辰五郎らは木戸御免を認められていたが、
富士松はそうではなかったため、木戸で口論となった。
そこへ力士の九竜山が通りかかって、木戸番に味方したので、
辰五郎らは一旦引き下がった。
相撲場を去った辰五郎たちは芝居見物に向かったが、
同じその芝居小屋へ何も知らずに九竜山がやって来て、
先刻の恨みが再燃。他の見物客らもあおってその巨体を野次り、
満座の中で恥をかかせ大喧嘩となった。)
(芝大神宮の本殿)
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他に、「貯金祭り」と変わったお祭りがあり、
武者小路実篤が書いた貯金塚があることで知られる。
ここ貯金塚には、(根気根気 何事も根気 実篤)と書かれている。
毎年、貯蓄・貯金が出来ますようにと祈祷も行われる。
(武者小路実篤の貯金塚)
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芝大神宮を出て、泉岳寺方向へ第一京浜をすすむ。
JR浜松町駅へ入る道路との交差点右側に、
徳川家の菩提寺になっている増上寺の山門、通称「大門」が見える。
先の地震(3・11の地震)で、痛んでいるので触らない様注意書きがある。
(芝増上寺の大門)
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さらに進むと右手奥に「」の大きな木が見える。
この辺りは、大きなビルに囲まれている町中に、
一本の大木が見えるので解かり易い。
お寺の門前に、「最初のオランダ公使宿館跡」の石柱が見える。
(西應寺の木)
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(オランダ公使宿館跡の碑)
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東京都教育委員会の説明によると、
(オランダは長崎出島に本拠を持ち、江戸に所用があるときは、
日本橋本石町の「長崎屋」や、外交使節の場合は、長應寺を利用しています。
安政五年(1858)ドルケン・クルチウスが、
幕府と日蘭修好通商条約結ぶ交渉の際には、真福寺を使用しています。
芝周辺の大寺が外国使節の宿館として選ばれますが、
西應寺もイギリス使節エルギン一行の宿館として日英修好通商条約の
締結の地となります。
アメリカ善福寺、イギリス東禅寺、フランス済海寺と共に、
西應寺も、「最初のオランダ公使宿館跡」に昭和28年(1953)指定されました。
―以下省略)とある。
ボクのように歴史音痴には、よく理解できない説明板である。
まず、長應寺って何処にあるの?
真福寺、善福寺、東禅寺、済海寺、は一体何処にあるのだろう。
東京都教育委員会はひとり合点で、
説明板を読む人は誰でも解かっていると思って作っているに違いない。
読む人の中には、ボクのように歴史音痴が沢山いるのだから、
そんな人向けに、もう少し解かり易く説明板を作って欲しいものだ。
いえいえ、歴史音痴はボクだけで、他の方は良くご存知なのかもしれない。
恥ずかしくも無く、恥をさらすなんてことは、今年は止めることにしよう。
それにしても、「知らなかった事さえ、知らなかったことを知ることが勉強」なのだから、
いずれ調べてご報告します。
(西應寺)
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それにしても西應寺については、西應寺の由来として、
興味深い説明があったので、載せておきたい。
(田中山 相福院 西應寺は、応安元年(1368)妙賢法尼により草創されました。
妙賢法尼は前身を時姫と言い、鎌倉幕府執権・北条高時公の末娘に当ります。
時姫は父高時の自刃や一門の悲惨な終焉の模様を伝え聞き、
仏門に入りその菩提を弔うことを発願しました。
後に出家し妙賢法尼と称して、
この地に草庵を結び田中庵と号しました。
天正十九年(1591)には徳川家康公より寺領十石が寄贈され、
寺号が西往寺から現在の西應寺に改められました。
町名が西應寺町と呼ばれた所が朱印地の一部で、
境内地を含め9018坪という広大な寺領を有していました。
――中略――
安政五年(1858)日蘭通商修好条約が結ばれると、
同六年九月からオランダ公使館が寺内に置かれました。
その後、明治政府による神仏分離令、関東大震災を経て、
第二次世界大戦の空襲禍により、堂宇は烏有に帰す(*)も、
檀信徒を得て再興し、今日に至っています。)とある。
鎌倉時代末期の北条高時の娘が、
この世を哀れんで出家し西應寺の基礎となったようだ。
第一京浜国道を進むと、(旧海岸通り)と道路標識がある。
ここを越えてJR田町駅方面に、赤穂義士47士は進んだ。
(旧海岸通りの標識)
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(*)烏有(うゆう)に帰す=「烏(いず)くんぞ有らんや」の意味で、
何も無くなってしまう事。
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(浅野内匠頭終焉の場所と芝大神宮と西應寺)
忠臣蔵の47士は、今の築地駅から昭和通りを左折して、
新橋駅の左横を通り、第一京浜国道を進み泉岳寺に向った。
昭和通りに入って、すぐの露地に「木挽町 砂場」有名な蕎麦屋さんがあるが、
その前の通りに、歌にある「銀座の柳」を思い浮かべさせる、
柳の並木が何本も見える。
(木挽町砂場の看板と銀座の柳?の並木)
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さらに進むと、晴海通りに出て、(三原橋)の交叉点に出るが、
この信号を渡り終えて振り返ると、
最近新築したはずの歌舞伎座が見える。
新しくなった歌舞伎座は、正面入り口部分は昔のままで、
後方に聳えるビルが今度新しくなったものである。
(三原橋交差点)
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(三原橋交差点2)
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(歌舞伎座の正面入り口)
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道路を道なりに進むと、左折は品川方面の案内標識があるので左折し、
第一京浜国道へ入っていく。
新橋駅を過ぎて新橋五丁目の信号を右折し、
日比谷通りに出たところの信号を右折すると、
目の前の歩道上に「浅野内匠頭終焉の地」の石碑と説明板がある。
(左折品川方面の案内標識)
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(新橋五丁目信号)
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(浅野内匠頭終焉の地)
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「旧田村右京太夫の屋敷跡にして、元禄14年3月14日に、
浅野内匠頭自刃せし所なり。」とあり、辞世の歌が記されている。
有名な辞世の歌は、
・ 風さそう 花よりもなお 我はまた
春の名残を 如何にとやせん
とある。
(浅野内匠頭の辞世)
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元来た道、第一京浜に戻り「新橋五丁目」交差点を右折し進むと、
右手に芝大神宮の石碑が見える。
ここは「め組」の辰五郎と力士の喧嘩で有名(*)で、
め組の狛犬が芝大神宮の社殿前にある。
(芝大神宮の石柱)
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(芝大神宮の鳥居)
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(め組の狛犬)
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(*)(喧嘩のあらすじは、芝神明境内で開催中だった相撲の春場所を、
め組の鳶職・辰五郎と長次郎、その知人の富士松が無銭見物しようとしたのが発端。
芝神明宮界隈はめ組の管轄であり、辰五郎らは木戸御免を認められていたが、
富士松はそうではなかったため、木戸で口論となった。
そこへ力士の九竜山が通りかかって、木戸番に味方したので、
辰五郎らは一旦引き下がった。
相撲場を去った辰五郎たちは芝居見物に向かったが、
同じその芝居小屋へ何も知らずに九竜山がやって来て、
先刻の恨みが再燃。他の見物客らもあおってその巨体を野次り、
満座の中で恥をかかせ大喧嘩となった。)
(芝大神宮の本殿)
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他に、「貯金祭り」と変わったお祭りがあり、
武者小路実篤が書いた貯金塚があることで知られる。
ここ貯金塚には、(根気根気 何事も根気 実篤)と書かれている。
毎年、貯蓄・貯金が出来ますようにと祈祷も行われる。
(武者小路実篤の貯金塚)
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芝大神宮を出て、泉岳寺方向へ第一京浜をすすむ。
JR浜松町駅へ入る道路との交差点右側に、
徳川家の菩提寺になっている増上寺の山門、通称「大門」が見える。
先の地震(3・11の地震)で、痛んでいるので触らない様注意書きがある。
(芝増上寺の大門)
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さらに進むと右手奥に「」の大きな木が見える。
この辺りは、大きなビルに囲まれている町中に、
一本の大木が見えるので解かり易い。
お寺の門前に、「最初のオランダ公使宿館跡」の石柱が見える。
(西應寺の木)
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東京都教育委員会の説明によると、
(オランダは長崎出島に本拠を持ち、江戸に所用があるときは、
日本橋本石町の「長崎屋」や、外交使節の場合は、長應寺を利用しています。
安政五年(1858)ドルケン・クルチウスが、
幕府と日蘭修好通商条約結ぶ交渉の際には、真福寺を使用しています。
芝周辺の大寺が外国使節の宿館として選ばれますが、
西應寺もイギリス使節エルギン一行の宿館として日英修好通商条約の
締結の地となります。
アメリカ善福寺、イギリス東禅寺、フランス済海寺と共に、
西應寺も、「最初のオランダ公使宿館跡」に昭和28年(1953)指定されました。
―以下省略)とある。
ボクのように歴史音痴には、よく理解できない説明板である。
まず、長應寺って何処にあるの?
真福寺、善福寺、東禅寺、済海寺、は一体何処にあるのだろう。
東京都教育委員会はひとり合点で、
説明板を読む人は誰でも解かっていると思って作っているに違いない。
読む人の中には、ボクのように歴史音痴が沢山いるのだから、
そんな人向けに、もう少し解かり易く説明板を作って欲しいものだ。
いえいえ、歴史音痴はボクだけで、他の方は良くご存知なのかもしれない。
恥ずかしくも無く、恥をさらすなんてことは、今年は止めることにしよう。
それにしても、「知らなかった事さえ、知らなかったことを知ることが勉強」なのだから、
いずれ調べてご報告します。
(西應寺)
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それにしても西應寺については、西應寺の由来として、
興味深い説明があったので、載せておきたい。
(田中山 相福院 西應寺は、応安元年(1368)妙賢法尼により草創されました。
妙賢法尼は前身を時姫と言い、鎌倉幕府執権・北条高時公の末娘に当ります。
時姫は父高時の自刃や一門の悲惨な終焉の模様を伝え聞き、
仏門に入りその菩提を弔うことを発願しました。
後に出家し妙賢法尼と称して、
この地に草庵を結び田中庵と号しました。
天正十九年(1591)には徳川家康公より寺領十石が寄贈され、
寺号が西往寺から現在の西應寺に改められました。
町名が西應寺町と呼ばれた所が朱印地の一部で、
境内地を含め9018坪という広大な寺領を有していました。
――中略――
安政五年(1858)日蘭通商修好条約が結ばれると、
同六年九月からオランダ公使館が寺内に置かれました。
その後、明治政府による神仏分離令、関東大震災を経て、
第二次世界大戦の空襲禍により、堂宇は烏有に帰す(*)も、
檀信徒を得て再興し、今日に至っています。)とある。
鎌倉時代末期の北条高時の娘が、
この世を哀れんで出家し西應寺の基礎となったようだ。
第一京浜国道を進むと、(旧海岸通り)と道路標識がある。
ここを越えてJR田町駅方面に、赤穂義士47士は進んだ。
(旧海岸通りの標識)
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(*)烏有(うゆう)に帰す=「烏(いず)くんぞ有らんや」の意味で、
何も無くなってしまう事。