(白金高輪の肥後熊本藩下屋敷跡のスダジイ)
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(泉岳寺以降の義士たち)
忠臣蔵は、大石良雄以下47士が討ち入りを果たし、
吉良上野介の首を主君の墓前に供える所で、
各種エピソードは終わっている。
その後を知りたいと思っていた所、
忠臣蔵と細川家について、
泉岳寺後の赤穂義士たちの動静を記した古文書展が、
文京区目白台の永青文庫で催されていたので、
ここで知り得たことを、紹介しておきたい。
主君の仇討ちが終わった報告をした大石蔵之助以下四十七士は、
泉岳寺から大目付 仙石伯耆守邸に自首した。
老中寄り集まり評議の結果、ひとまず赤穂浪士は細川綱利、松平定直、
毛利綱元、水野忠之の4家に分割してお預けにすることが決まった。
細川家では、浪士ではなく義士として丁重に扱ったという。
赤穂浪士がとった行為は、儒学的には士(さむらい)の道であるが、
徒党を組んだのは法を破るものであるというのが、
当時の意見であったという。
17人の身柄受け取りに当って、医師、足軽、駕篭かきなど、
総勢875人を仙石の屋敷に派遣している。
わずか17人の引き取りのためとは言いながら、
875人の派遣は、
吉良家を応援するものの反撃を警戒しての事であろうか、
多すぎるように思われる。
「大石以下17名を、肥後熊本藩当主 五代細川綱利は江戸藩邸に預かりました。
他藩では、赤穂浪士を罪人同然の扱いをしたようですが、
細川家では彼らを客分として扱い、帯刀を許し、
綱利の命で三度の食事も二汁五菜で厚くもてなしました。」
(忠臣蔵と細川家展の細川護煕氏あいさつ文より)
(現在残る肥後熊本藩 細川家下屋敷跡)(白金高輪)
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二汁五菜は、武家の正式な食事で、
本膳と二の膳に汁物が一品ずつ、おかずが二品ずつ置かれ、
別の膳に焼き物が出た。
記録では、細川綱利は、
「このたびのことは、忠義の至り、館に預かる事は武門の本望、
心易く、くつろぎ、数ヶ月の辛苦、昨夜の疲れを休めるよう」と、
ねぎらっている。
(討ち入りしたのは、藩の下級武士が多く、
上位のものが脱落したことを、
蔵之助は恥じていた。堀部弥兵衛は77歳で、
三代前から仕えてこの年になったこと、
討ち入りでは自分の志ばかりで大した働きは無く、
門番をしたに過ぎないと言っている。)(堀内伝右衛門覚書「赤穂義臣対話」より)
また、
「元禄十五年十二月十四日は、芝居では雪だった事になっていますが、
実は当日雪ではなく、前日に降った雪が一尺ほど残っていたようです。
また、芝居では、
炭焼き小屋に隠れていた上野介を眉間の傷で判明した事になっていますが、
本当は上野介が着物に炊き込めていた特別のお香で、
それとわかったと言います。
細川家の資料の中には江戸時代265年間、
担当者が毎日書きとめた日記などが含まれていますので、
父護貞の話はそれらによったものと想われます。」(同上細川護煕氏あいさつ文より)
討ち入りの日の雪は、本当は前日降ったものが残っていたものだったことや、
上野介を確認するのに、炊き込めた香によるものだというのは初耳だ。
この(忠臣蔵と細川家展)は、
2013年12月14日より2014年3月23日まで開催されている。
また、「切腹の折には、畳三畳の上に白ふろしきを敷いて、
大石蔵之助より切腹するも、
切腹する人が替わる都度、畳は新しく替え、介錯人も替えた。」
「切腹が終わった後、清めようとした所、17人は守り神であるから、
清めるには当らない」といったという。
(お預かり人始終覚書より)とある。
(切腹の現場の案内板)
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その後、
宝永4年(1707)小川恒充作 「忠誠後艦録」6巻に、
忠臣蔵後始末を綴ってあるが、
「他家については分からないが、
細川家における扱いについては、ほぼ記述に間違いが無い」と、
細川綱利(1645~1714)が語ったという。
偶然、文京区目白台の永青文庫で(忠臣蔵と細川家展)が開催されており、
永青文庫からの展示物からの抜粋と感想を取り混ぜ報告します。
*永青文庫は、肥後熊本藩54万石の大名細川家に伝わる美術品の宝庫。
西暦1300年から700年の伝統を持つ同文庫は、
約11万2千点を持って構成されたコレクションとして知られる。
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(泉岳寺以降の義士たち)
忠臣蔵は、大石良雄以下47士が討ち入りを果たし、
吉良上野介の首を主君の墓前に供える所で、
各種エピソードは終わっている。
その後を知りたいと思っていた所、
忠臣蔵と細川家について、
泉岳寺後の赤穂義士たちの動静を記した古文書展が、
文京区目白台の永青文庫で催されていたので、
ここで知り得たことを、紹介しておきたい。
主君の仇討ちが終わった報告をした大石蔵之助以下四十七士は、
泉岳寺から大目付 仙石伯耆守邸に自首した。
老中寄り集まり評議の結果、ひとまず赤穂浪士は細川綱利、松平定直、
毛利綱元、水野忠之の4家に分割してお預けにすることが決まった。
細川家では、浪士ではなく義士として丁重に扱ったという。
赤穂浪士がとった行為は、儒学的には士(さむらい)の道であるが、
徒党を組んだのは法を破るものであるというのが、
当時の意見であったという。
17人の身柄受け取りに当って、医師、足軽、駕篭かきなど、
総勢875人を仙石の屋敷に派遣している。
わずか17人の引き取りのためとは言いながら、
875人の派遣は、
吉良家を応援するものの反撃を警戒しての事であろうか、
多すぎるように思われる。
「大石以下17名を、肥後熊本藩当主 五代細川綱利は江戸藩邸に預かりました。
他藩では、赤穂浪士を罪人同然の扱いをしたようですが、
細川家では彼らを客分として扱い、帯刀を許し、
綱利の命で三度の食事も二汁五菜で厚くもてなしました。」
(忠臣蔵と細川家展の細川護煕氏あいさつ文より)
(現在残る肥後熊本藩 細川家下屋敷跡)(白金高輪)
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二汁五菜は、武家の正式な食事で、
本膳と二の膳に汁物が一品ずつ、おかずが二品ずつ置かれ、
別の膳に焼き物が出た。
記録では、細川綱利は、
「このたびのことは、忠義の至り、館に預かる事は武門の本望、
心易く、くつろぎ、数ヶ月の辛苦、昨夜の疲れを休めるよう」と、
ねぎらっている。
(討ち入りしたのは、藩の下級武士が多く、
上位のものが脱落したことを、
蔵之助は恥じていた。堀部弥兵衛は77歳で、
三代前から仕えてこの年になったこと、
討ち入りでは自分の志ばかりで大した働きは無く、
門番をしたに過ぎないと言っている。)(堀内伝右衛門覚書「赤穂義臣対話」より)
また、
「元禄十五年十二月十四日は、芝居では雪だった事になっていますが、
実は当日雪ではなく、前日に降った雪が一尺ほど残っていたようです。
また、芝居では、
炭焼き小屋に隠れていた上野介を眉間の傷で判明した事になっていますが、
本当は上野介が着物に炊き込めていた特別のお香で、
それとわかったと言います。
細川家の資料の中には江戸時代265年間、
担当者が毎日書きとめた日記などが含まれていますので、
父護貞の話はそれらによったものと想われます。」(同上細川護煕氏あいさつ文より)
討ち入りの日の雪は、本当は前日降ったものが残っていたものだったことや、
上野介を確認するのに、炊き込めた香によるものだというのは初耳だ。
この(忠臣蔵と細川家展)は、
2013年12月14日より2014年3月23日まで開催されている。
また、「切腹の折には、畳三畳の上に白ふろしきを敷いて、
大石蔵之助より切腹するも、
切腹する人が替わる都度、畳は新しく替え、介錯人も替えた。」
「切腹が終わった後、清めようとした所、17人は守り神であるから、
清めるには当らない」といったという。
(お預かり人始終覚書より)とある。
(切腹の現場の案内板)
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その後、
宝永4年(1707)小川恒充作 「忠誠後艦録」6巻に、
忠臣蔵後始末を綴ってあるが、
「他家については分からないが、
細川家における扱いについては、ほぼ記述に間違いが無い」と、
細川綱利(1645~1714)が語ったという。
偶然、文京区目白台の永青文庫で(忠臣蔵と細川家展)が開催されており、
永青文庫からの展示物からの抜粋と感想を取り混ぜ報告します。
*永青文庫は、肥後熊本藩54万石の大名細川家に伝わる美術品の宝庫。
西暦1300年から700年の伝統を持つ同文庫は、
約11万2千点を持って構成されたコレクションとして知られる。