(白金高輪の肥後熊本藩下屋敷跡に残るスダジイ)
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(スダジイの幹)
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(白金高輪に残る肥後熊本藩下屋敷跡)
泉岳寺の大石蔵之助の銅像横にある昔農道の様な細い道を進む。
左右は学校の運動場とお寺の墓地を囲む高い塀がある。
しばらく進むと、やや開けて、左は民家に囲まれ、右は正源寺の境内だ。
お寺を回るようにして進むと、
マンション(後で調べた所、アジアの大使館)にぶつかり、
左折すると広い道路に突き当たる。
突き当たる手前の左側に、古びた自然石の碑が建っている。
東京都港区役所の二丁目の掲示板の前である。
古くてよく読めないが、
どうやら「川端玉章〇〇」と刻まれているように見える。
(狭い道)
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(狭い道を抜けた高輪二丁目掲示板と川端玉章の碑)
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(川端玉章とかろうじて読める碑)
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川端玉章は明治時代の日本画家で、岡倉天心が東京藝術大学の前身、
東京美術学校に日本画の教師として迎えられ、
後に帝室技芸員(今で言う人間国宝のようなもの)になった人で、
この川端玉章のお墓が正源寺にあるとのこと。(港区)
目の前の通りを渡り左へ少し進むと、右折できる露地がある。
奥を覗くと、左右に大きな木が並んでいる。
右側は椎の木が何本も生えており、高い塀で囲まれている。
これは高松宮邸東側で、正面出入り口の道路には交番がある。
(右高松宮邸)
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(高松宮邸正面入り口)
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左側は高い木に囲まれた高輪アパートというが、
原宿や代官山にあった、高級マンションを思い浮かばせる佇まいである。
その奥に金網で囲まれた肥後 熊本藩邸跡の広大な林がある。
縦横およそ100mあろうかという藩邸跡は、高台だけが残っており、
低地には港区立高輪中学のグラウンドと校舎がある。
林は、巾10m間隔で左へ約100m、直進約100mという形で残っている。
(左側の高輪アパート)
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(旧細川家のスダジイからみた細川邸跡の林)
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さて、本題の忠臣最後の場所には、門が設置されており、
東京都教育委員会の説明板に、「大石良雄外十六人忠烈の跡」として、
(この地は、赤穂事件で大石蔵之助良雄ら十七人が、
預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷の一部です。
赤穂事件とは、元禄14年(1701)三月十四日に起こった殿中刃傷事件と、
その翌年十二月十四日から十五日にかけての吉良邸討ち入り
及びその一連の事件のことを言います。
――中略――
細川家は、大藩の威厳と識見をもって優遇し、
お預かり四家の中で即日引見したのは細川家だけでした。
元禄十六年(1703)二月四日午後二時、
上司のお目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から、
切腹の申し渡しを受け、大石蔵之助が一同を代表して
「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合せ存知奉り候」と礼を述べました。
切腹場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、
背後に池を背負った位置でした。)とある。
(肥後 熊本藩下屋敷跡)
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(熊本藩屋敷跡の大木)
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(自刃せる義士左の如し)
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(残っている邸内切腹の場所跡)
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熊本藩邸跡を囲んで散歩道路が作られている。
散歩道の終わりにと言うか最初にと言うか、港区高輪支所の五階部分の横に、
「旧細川家のシイ」として、東京都の天然記念物と指定され残されている。
(高さ10.8m、幹周り8.1m、枝張り南北に5.8mで幹が空洞であったので、
大規模な外科手術をして今日に至っている。)
(旧細川家のシイの木)
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(旧細川家前の散歩道)
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(旧細川家前の散歩道2)
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