(仙石線 石巻駅行きホーム)
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おくのほそ道【24】石巻の項で、芭蕉は
(十二日、平和泉(ひらいずみ)と心ざし、
あねはの松・緒だえの橋など聞き伝えて、
人跡稀に雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の往(ゆ)きかふ道そこともわかず、
終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊(みなと)に出(いづ)。
――中略――
海上を見わたし、数百の廻船入り江につどい、
人家地をあらそひて、竈の烟立ちつづけたり。)
あねはの松・緒だえの橋など聞き伝えて、
人跡稀に雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の往(ゆ)きかふ道そこともわかず、
終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊(みなと)に出(いづ)。
――中略――
海上を見わたし、数百の廻船入り江につどい、
人家地をあらそひて、竈の烟立ちつづけたり。)
と綴っている。
次は、ボクの勝手な現代語訳です。
(平泉を目指して、姉歯の松・おだえの橋(共に地名で歌枕)など伝え聞いて、
人跡まれな木こりや猟人しか通らないような道かも知れず、
とうとう道を間違えたらしく、石巻と言う港に出た。
――中略――
海上を見渡すと、数百の廻船が入り江に集まり、
人家は密集して、竈の煙が立ち込めて、活気のある所だ。)
朝早く東京から「はやぶさ3号」に乗って、仙台で仙石線に乗り換え、
石巻駅に着いたのが午前10時半ごろ。
石巻は、漫画家 石ノ森章太郎の出身地で駅にアニメのキャラクターが待ち受ける。
(石巻駅のキャラクター)
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石巻で芭蕉は町の様子を一望にしているが、
その場所が日和山だと言うことが解っている。
しかし、日和山まで、駅からどれほどの距離があって、
歩いて行けそうかどうか解らない。
そこで駅前の交番に寄って聞くことにした。
お巡りさん「およそ2km位ですから、歩いて行けなくもないですが・・・・。」
とボクを見ながら口ごもる。
「何か、不都合でも?」と聞くと、かなりな登り道らしい。
お礼を言って、駅前の客待ちのタクシーに乗ることにした。
タクシーの運転手さんの話では、
日和山近くに石巻高等学校があって、
毎日住吉公園までランニングさせられた。
そのコースはかなりな坂道を走るので、
どうやってサボるか考えて実行したらしい。
タクシーは登りのその坂道を走って高校の前を通ったが、
校舎の前に、「東京大学現役合格」の垂れ幕が下がっていた。
優秀な進学校で運転手さんは卒業生だと言う。
下り坂になると確かにジェットコースター並みの坂であった。
日和山公園で待ってもらって、ボクは降りる。
正面に鳥居があって、その先は海で、なるほど芭蕉が見たら、
商売の船が何艘も係留できそうである。
(鳥居と背後の河口と空き地)
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(北上川河口と津波で家が無くなった空き地)
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神社左横、やや下った所に、芭蕉と曽良の像が置かれている。
(芭蕉と曽良の像1)
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(芭蕉と曽良の像2)
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(芭蕉と曽良の像3)
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3・11の東北大地震の大津波で、海辺の町はまだほとんど更地の状態であった。
もう6年も経つのに、まだまだ復興にはほど遠い。
鳥居の後ろには当然神社がある。
鹿島御児神社と言うが、社殿との間の老樹の下に句碑がある。
(芭蕉句碑)
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句碑には、
雲折々
芭蕉翁 人を休める
月見かな
芭蕉翁 人を休める
月見かな
とあるようだが古くてか、潮風で風化してか読み取れない。
石巻教育委員会の説明によれば、
(月見をしていると、見とれてしまい、我を忘れるが、
時々月が雲に隠れたときに一息つくことが出来る。)と言う意らしい。
(二の鳥居と鹿島御児神社)
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(本殿)
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神社右横に行くと、神社裏側の景色が一望できる。
石ノ森章太郎の漫画館が川の中州に白いドーム状の建物で目立つ。
その他の建物はほとんどが津波で流されて更地になっている。
ここ日和山は海抜17メートルあるが、押し寄せた津波は7メートル、
漫画館のある橋を優に超えて、船が道路に浮かんでいる状態であった、
とはタクシーの運転手さんの話である。
芭蕉は、「おくのほそ道」の石巻の項で、
冒頭の文章の続きを、次のように表現している。
「思ひかけず斯かる所に来れるかなと、
宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家に
一夜をあかして、明(あく)れば又しらぬ道まよい行(ゆく)。
袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて、
遥かなる堤を行く。――以下省略」
宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家に
一夜をあかして、明(あく)れば又しらぬ道まよい行(ゆく)。
袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて、
遥かなる堤を行く。――以下省略」
(神社裏手の石巻の景色)
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(石ノ森漫画館後ろの橋を右に渡った緑深い山)
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白いドーム状の漫画館の裏手の橋を右に眼を移す、
つまり橋の東側に緑豊かな山が連なっているのが見えるが、
ここは「牧山市民の森」で、
芭蕉が「おぶちの牧」と述べている所である。
さらに右奥に(石巻市の東北に)写真では見えないが、
「まのの萱(かや)はら」がある。
また、ここにある「袖のわたり」は北上川の石ノ森漫画館の北側にあり、
そこには大嶋神社(住吉社)があり、現在は住吉公園となって居る。
(大嶋神社の鳥居)
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(大嶋神社の拝殿)
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(大嶋神社の鐘楼)
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(琴柱灯篭)
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琴の弦を張る駒で音程を決める柱を琴柱(ことじ)と言うが、
これに似た灯篭を琴柱灯篭と言う。
神社なのに鐘楼があるのは何故(?)と誰も思うが、
江戸時代 この神社の境内に、寿福寺というお寺があり,
鐘はその寿福寺のものであった。
鐘の重みでか、どうか解りませんが、鐘楼は津波で流されることなく、
そのまま残ったようです。
同じように琴柱灯篭も元のまま残ったようで、
年代物の灯篭らしく、証拠の苔が灯篭の足についています。
鐘楼の前、川の中に「袖の渡し」があります。
以前は、常緑の松に囲まれ東屋があった渡し場が、
津波で松も東屋も流され、枯れた松が残るばかりです。
北上川を渡るには、昔は渡し舟に頼らざるを得ず、
源頼朝に追われた義経主従が、藤原氏を訪ねて平泉へ向かう途中、
ここの渡しを利用した。
船賃が払えず、やむなく袖をちぎって船代とした話が、
伝説として残って居り、
それで「袖の渡し」と名付けられたようだ。
それが碑になって残されている。
(袖の渡しへの橋)
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(名跡 「袖の渡」の碑)
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(碑のいわれ)
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(道標)
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道標には、石巻街道、金花山道、一関街道となっている。
説明板によれば、
(石巻街道は、仙台城下と石巻を結ぶ道で、
この街道から北部への道として、
涌谷・登米道、気仙道が別れていました。
金花山道は、石巻から山鳥に至る道で、
金華山への参詣の道として利用されました。
一関道は、石巻から登米を経て一関(岩手県)に至り、
奥州街道と接続する道でした。)とある。
さて、「袖の渡し」の先端の松の木の下、
川の中に「石の巻き石」が見えます。
石巻市の説明に詳しく記されています。
仙台藩が編纂した封内風土記(ほうないふどき)の内容を要約しますと、
「古来伝えられた説によれば、地元の人が(石巻石)と呼ぶ巨石が、
住吉社の前にあり、形が烏帽子に見える。
その石の周りに水の渦が回って自然の紋ができ、
物を巻いたように見えるところから
「石旋/イシノマキ」と呼ばれるようになり、
そこから地名が生まれた――。」と言う。
(地名の由来となった巻き石)
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津波で枯れた松の横、川の中に見える石が、地名の由来となった巻き石です。
干満の差で周りに水の渦が出来、これが石を巻く様子から石巻となった。
(?)
少し怪しい気がしないでもない。