旧中山道の板橋宿を過ぎて、旧中山道は国道17号線(中山道)と合流、
しばらくして、日本橋から三つ目の「志村の一里塚」が見える。
(志村の一里塚)
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その先にある交差点「志村坂上」の信号で旧中山道は左側の交番を挟んで左に分かれる。
ここから旧中山道最初の難関と言われた「清水坂」にはいる。
(志村坂上の交差点)
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Y字路となって左へ入る旧道との間に少し見難いが交番がある。
旧道へ入るとすぐ右手の民家の塀の中に庚申塚が見える。
(庚申塚のある民家の塀)
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(庚申塚の青面金剛)
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庚申塚は、60日に一回来る庚申の日(かのえさるの日)に、
「眠ると体内に居ると言う三尸(さんし)の虫が、
人の悪行を天帝に告げる」(中国道教の教え)ため、
その日は一睡もせずに夜を過ごした。
写真は像が古く見えにくいが、青面金剛(しょうめんこんごう)が刻まれ、
像の足元には、「見ざる聞かざる言わざる」の三猿が刻まれている。
ここで三猿は、庚申が申(さる)の日であることから刻まれているようである。
しばらくすると、左手の民家の玄関前に、二基の古い石塔が見えてくる。
ひとつは庚申塔と漢字で刻まれており、一つは道しるべで、
「是より大山道幷ねりま川こえみち」と刻まれています。
現代文では「これより大山道 並びに練馬 川越道」と刻まれている。
(庚申塔と道標)
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(庚申塔と道標の拡大)
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(庚申塔の左横にある道標)
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庚申塔の左横には、「是より富士山大山道 練馬江一里 柳沢江一里 府中江七里」とあります。
往時、ここが富士詣でや大山詣での分岐点としての道標です。
練馬へ一里、柳沢(やぎさわ)へ一里、これは保谷市(現在の西東京市)の柳沢まで、
富士街道で一里の距離を示す。
府中までは七里とありますが、およそ28kmとの道しるべです。
さて、この清水坂を下ると左手に古い石塔が見える。
これは「馬頭観世音」で文字がかすかに見える程度である。
中山道では宿場ごとに、
荷物を運ぶ人馬を、馬50頭、荷役人25人を常備する決りであった。
「馬頭観世音」は、こうした馬の安全を祈願して建てられたものだ。
(清水坂と馬頭観世音が立っている場所)
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(マンションの玄関先に立っている馬頭観世音)
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(馬頭観世音)
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清水坂はこの先で、西にほぼ直角に折れているので、
富士山が街道上唯一右に見える場所と言われる。
しかし筆者が何度も通ってみたが右側には見えなかった。
往時の街道はもっと左へ鋭角に曲がっていたのかもしれない。
(清水坂右富士が見えると思われる場所)
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(富士山が見える方角はカーブミラーの後ろの木の方角)
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(清水坂の終点?)
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その清水坂の途中、右富士が見えると思われる場所辺りに、
昔は大善寺の地蔵堂があった。
その大善寺は、「江戸名所図会」にも載るほどの有名な寺であり、
薬師三尊(清水薬師。伝・聖徳太子作)が、大善寺の本尊である。
八代将軍吉宗が鷹狩りの途中に大善寺に立ち寄り、
境内の湧き水(薬師の泉。板橋区小豆沢3-7)があまりに美味であったので
「清水薬師」と命名したと伝わる。
同地の地名「清水坂」の謂れとされている。
関東大震災以後、浅草の総泉寺が同居したが、その後合併により現在は総泉寺となっている。
(江戸名所図会の大善寺と薬師の泉)(WEBより)
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やっと表題の「薬師の泉」が出てきました。
図の左上がの道が清水坂で下の階段を降りて大善寺の境内に至る、
「清泉」とあるのが「薬師の泉」境内右手の茅葺屋根が「大善寺」と言う。(江戸名所図会)
つづきは次回へ
しばらくして、日本橋から三つ目の「志村の一里塚」が見える。
(志村の一里塚)
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その先にある交差点「志村坂上」の信号で旧中山道は左側の交番を挟んで左に分かれる。
ここから旧中山道最初の難関と言われた「清水坂」にはいる。
(志村坂上の交差点)
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Y字路となって左へ入る旧道との間に少し見難いが交番がある。
旧道へ入るとすぐ右手の民家の塀の中に庚申塚が見える。
(庚申塚のある民家の塀)
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(庚申塚の青面金剛)
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庚申塚は、60日に一回来る庚申の日(かのえさるの日)に、
「眠ると体内に居ると言う三尸(さんし)の虫が、
人の悪行を天帝に告げる」(中国道教の教え)ため、
その日は一睡もせずに夜を過ごした。
写真は像が古く見えにくいが、青面金剛(しょうめんこんごう)が刻まれ、
像の足元には、「見ざる聞かざる言わざる」の三猿が刻まれている。
ここで三猿は、庚申が申(さる)の日であることから刻まれているようである。
しばらくすると、左手の民家の玄関前に、二基の古い石塔が見えてくる。
ひとつは庚申塔と漢字で刻まれており、一つは道しるべで、
「是より大山道幷ねりま川こえみち」と刻まれています。
現代文では「これより大山道 並びに練馬 川越道」と刻まれている。
(庚申塔と道標)
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(庚申塔と道標の拡大)
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(庚申塔の左横にある道標)
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庚申塔の左横には、「是より富士山大山道 練馬江一里 柳沢江一里 府中江七里」とあります。
往時、ここが富士詣でや大山詣での分岐点としての道標です。
練馬へ一里、柳沢(やぎさわ)へ一里、これは保谷市(現在の西東京市)の柳沢まで、
富士街道で一里の距離を示す。
府中までは七里とありますが、およそ28kmとの道しるべです。
さて、この清水坂を下ると左手に古い石塔が見える。
これは「馬頭観世音」で文字がかすかに見える程度である。
中山道では宿場ごとに、
荷物を運ぶ人馬を、馬50頭、荷役人25人を常備する決りであった。
「馬頭観世音」は、こうした馬の安全を祈願して建てられたものだ。
(清水坂と馬頭観世音が立っている場所)
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(マンションの玄関先に立っている馬頭観世音)
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(馬頭観世音)
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清水坂はこの先で、西にほぼ直角に折れているので、
富士山が街道上唯一右に見える場所と言われる。
しかし筆者が何度も通ってみたが右側には見えなかった。
往時の街道はもっと左へ鋭角に曲がっていたのかもしれない。
(清水坂右富士が見えると思われる場所)
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(富士山が見える方角はカーブミラーの後ろの木の方角)
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(清水坂の終点?)
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その清水坂の途中、右富士が見えると思われる場所辺りに、
昔は大善寺の地蔵堂があった。
その大善寺は、「江戸名所図会」にも載るほどの有名な寺であり、
薬師三尊(清水薬師。伝・聖徳太子作)が、大善寺の本尊である。
八代将軍吉宗が鷹狩りの途中に大善寺に立ち寄り、
境内の湧き水(薬師の泉。板橋区小豆沢3-7)があまりに美味であったので
「清水薬師」と命名したと伝わる。
同地の地名「清水坂」の謂れとされている。
関東大震災以後、浅草の総泉寺が同居したが、その後合併により現在は総泉寺となっている。
(江戸名所図会の大善寺と薬師の泉)(WEBより)
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やっと表題の「薬師の泉」が出てきました。
図の左上がの道が清水坂で下の階段を降りて大善寺の境内に至る、
「清泉」とあるのが「薬師の泉」境内右手の茅葺屋根が「大善寺」と言う。(江戸名所図会)
つづきは次回へ
>ここから旧中山道最初の難関と言われた「清水坂」にはいる。
今は整備されているので歩きやすいでしょうが、この長い坂道は歩くのに大変だったでしょうね。
>(庚申塚のある民家の塀)
えらいお金持ちの家ですね。
庭の木が整備されていますね。(笑)
>写真は像が古く見えにくいが、青面金剛(しょうめんこんごう)が刻まれ、
像の足元には、「見ざる聞かざる言わざる」の三猿が刻まれている。
ここで三猿は、庚申が申(さる)の日であることから刻まれているようである。
hide-sanさんの解説がなかったら、間違いなく見落とすでしょうね。(笑)
組み合わせですね~水、大切な
ものですね~
いまも、その名残りの庚申塚を彼方此方で見かけます。
告げ口される方としては、「見ざる聞かざる言わざる」の三猿を刻みたくもなりますから、愉快な像です。
「馬頭観音」にしても「薬師の泉」も、仏さまたちに守られたいという庶民の素朴な思いが伝わります。
昔は泥んこ道でもう少しジグザグに道はあったようです。
富士山が右に見えるなんて、道路は相当鋭角に回りこんでいないと見えませんね。
都市化がどんどん進んでこんな形になっています。
昔の中山道分間延絵図(ぶんけんのべえず)では人も通らぬ片田舎の感じです。
江戸は本郷まで、「江戸処払い」の刑を受けると
今の東京大学の前あたりで追放されたようです。
調べたら、魚や牛、豚、鶏を殺して食べていると言う罪、
その他の罪を犯しているのが悪行となる、との事です。
都内に、こんなに立派な形で両側に残っているのに驚いたものでした。
「清水坂」も懐かしいです。
旧中山道最初の難関にしては大したことがなかったので拍子抜けしました。
左手の民家の前の大山詣の分岐点の道標もよく覚えています。
「薬師の泉」では、一休みして水分補給しました。
清水坂の右富士に(中山道唯一右に富士が見える)
興味を持って、いつ来ても右には見えないので・・・・。