(千住大橋)
JR南千住駅を出て、左突き当りが、小塚原回向院でその前の道路が、
旧日光街道である。
道路を進むと、突き当たりになり、二階を高速道路が走っている。
今や国道4号線日光街道である。
正面は交番で、その背後に神社らしき木が生えており、
回りは石垣で囲まれている。
(JR南千住駅)
(旧日光街道の現在)
(4号線に面した交番)
石垣に沿って右に進むと提灯が見え、
「素盞雄(すさのお)神社」と書かれている。
(この神社は、荒川区内で最も広い氏子域を持つ鎮守です。
――中略――
千住は、松尾芭蕉が「奥の細道」旅立ちの地として有名ですが、
芭蕉が矢立初めとして詠んだ
「ゆく春や鳥鳴き魚の目は泪」の句を刻んだ句碑があります。
江戸時代に、南北の千住宿の文人たちによって建てられたものです。)
(荒川区産業経済部 観光振興課、足立区産業経済部 観光交流課)
とあります。
どうして荒川区と足立区が共同で出しているかと言うと、
千住大橋を挟んで、芭蕉の奥の細道 矢立はじめの地が、
双方にあるからです。
荒川区は「素盞雄(すさのお)神社」を矢立はじめの地としているし、
足立区は千住大橋を渡った左側の大橋公園を、
矢立はじめの地としているからです。
芭蕉は深川から小名木川を船に乗って、千住まで来た。
上陸したのは、千住大橋の荒川区側だったのか、
あるいは足立区側であったのか何処にも記録はない。
それで荒川区は荒川区側に上陸したとし、
足立区では足立区側に上陸したとしている。
ボクが考えるに、もともと前途三千里の奥州街道を行くことになるのだから、
千住宿のある足立区側に降り立ったものと思われる。
わざわざ荒川区側に降りて、千住大橋を渡って千住宿に入るとは、
到底考えられないからだ。
しかし、「素盞雄(すさのお)神社」にある芭蕉句碑
「ゆく春や 鳥啼き魚の目に泪」の句碑は、
江戸時代に建てられた事からすると、
荒川区側に上陸したのかもしれない。
どうも解からない。
(すさのお神社の鳥居と提灯)
鳥居をくぐって「素盞雄(すさのお)神社」へ入ると、
赤い日傘が目に入る。
手前に千住大橋の杭があり、その先に小さな流れがあって、
千住大橋で隅田川を渡るかたちで、その奥に芭蕉句碑がある。
・行く春や 鳥啼き魚の目に泪 はせお翁
そしてこの句碑の外側に、
(「おくの細道」の「千住といふ所より」から
「行く春や」の句までを刻し、亡友単兆子、翁の小影をうつし、
また我をして、その句を記さしむ。鵬斉老人書)の芭蕉の碑文があるが、
碑陰には、文政三年とあるから1820年に建てられたものである。
(すさのを神社内の芭蕉句碑)
(荒川区が芭蕉のの矢立始めの地となる証拠の句碑)
(芭蕉の碑文)
さて、一方で千住大橋を渡った左手にある大橋公園に、
「奥の細道 矢立初めの地」の石碑があり、
ここは足立区橋戸町です。
千住大橋を挟んで南北のどちらも「矢立初めの地」を譲らぬ構えです。
荒川区、足立区共に「芭蕉 矢立はじめの地」は、
我が方が正しいと言っているのです。
しかし、小冊子は仲良く荒川区、足立区共同で作成していますのも、
このような事情があるからなのでしょう。
隅田川の南側(荒川区)に上陸したのか、
隅田川の北側(足立区)に上陸したのか、
今となっては誰にも判らないようです。
千住大橋を渡ると、橋戸公園が左手にあり、
「奥の細道 矢立初めの地」の大きな石碑があります。
少し奥に目をやると、
「史跡 奥の細道 矢立初めの碑」として
(千住と言う所にて舟を上がれば)から始まり
(後かげのみゆる迄はと見送るなるべし)までの
おくの細道の一節が刻まれている石碑がある。
(千住大橋を渡ると足立区)
(足立区の大橋公園にある「矢立初め地」の石碑)
(公園内にある矢立初めの碑)
公園の奥に入り、隅田川の川べりに出ると、
護岸工事の壁に、
芭蕉と曾良の旅姿と
「奥の細道 旅立ちの地」として、
「千住と云所にて、舟をあがれば、前途三千里のおもい・・・」
が記されている。
(隅田川護岸壁の芭蕉旅立ちの地)
橋戸公園を出て、千住大橋を下れば、最初の信号に出る。
広い信号で、国道4号線は直進、
旧日光街道は右側の一方通行出口の標識のある所、
今丁度トラックが出てくるところを入っていきます。
入り口右手に「千住宿 奥の細道」の大看板があり、
手前に芭蕉翁の旅姿像があります。
芭蕉像の前には「日光道中 千住宿」の石碑が建っています。
左へ行けば「草加」と刻んであります。
昔から「そうか(草加)こしがや(越谷)千住の先」と言う言葉があるから、
どうせなら「草加越谷この先」とでも入れておけば、
面白い道標になったように思う。
(千住大橋を渡った最初の信号、旧日光街道は右側のトラックのいる所を入って行く)
(「千住宿 奥の細道」の大看板)
(芭蕉像と道標千住宿)
日光・奥州街道の第一の宿場 千住宿に入って行く。
芭蕉が現代を見たら、何というでしょうね。
「素盞雄神社」を芭蕉の矢立はじめの地でしたか。千住大橋手前にあるこの神社を見ますが、いつも通過するだけでした。
小塚原刑場の方は、訪ねました。↓
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/9a292ed5d9c3d98b4b5aac4156220c24
* 此処へ参ったのは、「トラック」を (hide-san)さん宅で検索したら、此処に誘導されました。
実家の墓は本来は千歳烏山に父の先祖の墓があります。父は長野にが在ります。
というのは羨ましいですね。
気象庁の予報では、今年は8月まで暑さが、長引くそうです。
懐かしいことでしょうね。
仕事では、通過していても考えていることが違いますから、
なかなか景色までは記憶に残らないでしょうね。
春遅い信州はやはり季節も何処かで早くなるのですね。
もう夏椿は綺麗に咲いていますよ~。
暑い!を口にするほどの暑さはほんの10日有るかないかですから。
いつも ありがとうございます♪(*'-^)-☆
気温が25度ぐらいだからこの時期としたら過ごしやすい一日でしたね。
この辺は車で通過したはずなんだけどあまり記憶に残っていませんな。
もう少し行くと荒川の千住新橋でしたかな。
首都高速の中央環状は千葉から戸田へ帰るときに
新井宿から東京外環道へ抜けて
週に1~2回ぐらい走ってましたね。
確か今は板橋へ抜ける高速も完成したんでしたね。
いよいよ松尾芭蕉の奥の細道へのスタート地点ですか
新4号はよく走りましたが旧の4号線はあまり使いませんでしたな。
結城や宇都宮へはよく仕事で走ってましたから途中で
記憶のある画像もお目にかかるかもしれませんね。
途方も無い先の旅路と言う思いを表したのでしょうね。
奥の細道を読めば読むほど、芭蕉の名文に惹かれます。
また、俳句が良く出来ていますね。
芭蕉の「千住と云所にて、舟をあがれば、前途三千里のおもい・・・」に
三千里とはと…辞書わ引くと非常に大きな数量の例えと…
本当に幾年月と云える旅たちともいえますね!
その間に詠んだいたも「三千詠み」とも云えるでしょうね!