椿山荘に「量救水(りょうぐすい)」と名づけられた水鉢があると聞いて出かけた。
何故この椿山荘の庭に、この「量救水」の大水鉢が置かれているのか分からない。
元は京都の日ノ岡峠の「亀の水不動」にあった水鉢である。
(亀の水不動)
亀の口から地下水が流れ、その水を受けていた大水鉢で、
「量救水(りょうぐすい)」と名づけられている。
(量救水)
旧中山道の日ノ岡峠は京都に入る最後の峠で、その手前、
大津宿側には「逢坂の関」で知られる逢坂の峠がある。
加えて大津から京都への荷物の量の多さは、普通の宿場の倍以上あった。
それは「中山道」から送られてくる荷物、「東海道」を経由する荷物で、
倍以上になったことは容易に想像できる。
これを京に運ぶには二つの峠を越えねばならず、難儀を極めたのを、
見かねて木食上人正禅養阿は、
日ノ岡峠に井戸を掘り当て、水を馬や役夫に振舞った。
その水をためた鉢が「量救水」である。
(木食上人と読めるか?)
(日ノ岡峠)
この水瓶がどのような経緯で、東京の椿山荘にあるのか分からない。
椿山荘の元所有者 山県有朋が京都から持ち込んだのか、不明である。
椿山荘の庭園には三重塔があるが、その左脇にこの量救水はあり、
現在は水道水と思われるが、水が滾々と湧き出ている。
(椿山荘の三重塔)
(椿山荘の庭、⑪番のところに量救水はある。)
何故この椿山荘の庭に、この「量救水」の大水鉢が置かれているのか分からない。
元は京都の日ノ岡峠の「亀の水不動」にあった水鉢である。
(亀の水不動)
亀の口から地下水が流れ、その水を受けていた大水鉢で、
「量救水(りょうぐすい)」と名づけられている。
(量救水)
旧中山道の日ノ岡峠は京都に入る最後の峠で、その手前、
大津宿側には「逢坂の関」で知られる逢坂の峠がある。
加えて大津から京都への荷物の量の多さは、普通の宿場の倍以上あった。
それは「中山道」から送られてくる荷物、「東海道」を経由する荷物で、
倍以上になったことは容易に想像できる。
これを京に運ぶには二つの峠を越えねばならず、難儀を極めたのを、
見かねて木食上人正禅養阿は、
日ノ岡峠に井戸を掘り当て、水を馬や役夫に振舞った。
その水をためた鉢が「量救水」である。
(木食上人と読めるか?)
(日ノ岡峠)
この水瓶がどのような経緯で、東京の椿山荘にあるのか分からない。
椿山荘の元所有者 山県有朋が京都から持ち込んだのか、不明である。
椿山荘の庭園には三重塔があるが、その左脇にこの量救水はあり、
現在は水道水と思われるが、水が滾々と湧き出ている。
(椿山荘の三重塔)
(椿山荘の庭、⑪番のところに量救水はある。)
庚申塚や七福神など・・・
水鉢はこのほかにもあります。
貧乏で支払い困難に名っても、電話、電気、ガスは止っても、水道だけは止めない。
命にかかわるからだ。
死ぬ直前には水を欲しがり、死んでからも唇に含ませる水。
その有難さを知って欲しいですね。
このようなものがあったとは。山縣有朋公すごいですね。
誰以上であつたと想いますね。
歩く峠道、何処に水がおもいながら
歩き続けただろうな…
山県有朋公だからできたことかな?