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楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

浅野内匠頭終焉の場所(忠臣蔵を歩く 8)

2014年01月12日 09時00分50秒 | ひとり歩き旅
(昭和通りの交差点)


(浅野内匠頭終焉の場所と芝大神宮と西應寺)
忠臣蔵の47士は、今の築地駅から昭和通りを左折して、
新橋駅の左横を通り、第一京浜国道を進み泉岳寺に向った。

昭和通りに入って、すぐの露地に「木挽町 砂場」有名な蕎麦屋さんがあるが、
その前の通りに、歌にある「銀座の柳」を思い浮かべさせる、
柳の並木が何本も見える。
(木挽町砂場の看板と銀座の柳?の並木)


さらに進むと、晴海通りに出て、(三原橋)の交叉点に出るが、
この信号を渡り終えて振り返ると、
最近新築したはずの歌舞伎座が見える。
新しくなった歌舞伎座は、正面入り口部分は昔のままで、
後方に聳えるビルが今度新しくなったものである。
(三原橋交差点)

(三原橋交差点2)

(歌舞伎座の正面入り口)


道路を道なりに進むと、左折は品川方面の案内標識があるので左折し、
第一京浜国道へ入っていく。

新橋駅を過ぎて新橋五丁目の信号を右折し、
日比谷通りに出たところの信号を右折すると、
目の前の歩道上に「浅野内匠頭終焉の地」の石碑と説明板がある。
(左折品川方面の案内標識)

(新橋五丁目信号)

(浅野内匠頭終焉の地)


「旧田村右京太夫の屋敷跡にして、元禄14年3月14日に、
浅野内匠頭自刃せし所なり。」とあり、辞世の歌が記されている。

有名な辞世の歌は、

・ 風さそう 花よりもなお 我はまた
         春の名残を 如何にとやせん

とある。
(浅野内匠頭の辞世)


元来た道、第一京浜に戻り「新橋五丁目」交差点を右折し進むと、
右手に芝大神宮の石碑が見える。
ここは「め組」の辰五郎と力士の喧嘩で有名(*)で、
め組の狛犬が芝大神宮の社殿前にある。
(芝大神宮の石柱)

(芝大神宮の鳥居)

(め組の狛犬)


(*)(喧嘩のあらすじは、芝神明境内で開催中だった相撲の春場所を、
め組の鳶職・辰五郎と長次郎、その知人の富士松が無銭見物しようとしたのが発端。
芝神明宮界隈はめ組の管轄であり、辰五郎らは木戸御免を認められていたが、
富士松はそうではなかったため、木戸で口論となった。
そこへ力士の九竜山が通りかかって、木戸番に味方したので、
辰五郎らは一旦引き下がった。
相撲場を去った辰五郎たちは芝居見物に向かったが、
同じその芝居小屋へ何も知らずに九竜山がやって来て、
先刻の恨みが再燃。他の見物客らもあおってその巨体を野次り、
満座の中で恥をかかせ大喧嘩となった。)
(芝大神宮の本殿)


他に、「貯金祭り」と変わったお祭りがあり、
武者小路実篤が書いた貯金塚があることで知られる。
ここ貯金塚には、(根気根気 何事も根気 実篤)と書かれている。
毎年、貯蓄・貯金が出来ますようにと祈祷も行われる。
(武者小路実篤の貯金塚)


芝大神宮を出て、泉岳寺方向へ第一京浜をすすむ。
JR浜松町駅へ入る道路との交差点右側に、
徳川家の菩提寺になっている増上寺の山門、通称「大門」が見える。
先の地震(3・11の地震)で、痛んでいるので触らない様注意書きがある。
(芝増上寺の大門)


さらに進むと右手奥に「」の大きな木が見える。
この辺りは、大きなビルに囲まれている町中に、
一本の大木が見えるので解かり易い。
お寺の門前に、「最初のオランダ公使宿館跡」の石柱が見える。
(西應寺の木)

(オランダ公使宿館跡の碑)


東京都教育委員会の説明によると、
(オランダは長崎出島に本拠を持ち、江戸に所用があるときは、
日本橋本石町の「長崎屋」や、外交使節の場合は、長應寺を利用しています。
安政五年(1858)ドルケン・クルチウスが、
幕府と日蘭修好通商条約結ぶ交渉の際には、真福寺を使用しています。
芝周辺の大寺が外国使節の宿館として選ばれますが、
西應寺もイギリス使節エルギン一行の宿館として日英修好通商条約の
締結の地となります。

アメリカ善福寺、イギリス東禅寺、フランス済海寺と共に、
西應寺も、「最初のオランダ公使宿館跡」に昭和28年(1953)指定されました。
―以下省略)とある。

ボクのように歴史音痴には、よく理解できない説明板である。
まず、長應寺って何処にあるの?
真福寺、善福寺、東禅寺、済海寺、は一体何処にあるのだろう。
東京都教育委員会はひとり合点で、
説明板を読む人は誰でも解かっていると思って作っているに違いない。
読む人の中には、ボクのように歴史音痴が沢山いるのだから、
そんな人向けに、もう少し解かり易く説明板を作って欲しいものだ。

いえいえ、歴史音痴はボクだけで、他の方は良くご存知なのかもしれない。
恥ずかしくも無く、恥をさらすなんてことは、今年は止めることにしよう。

それにしても、「知らなかった事さえ、知らなかったことを知ることが勉強」なのだから、
いずれ調べてご報告します。
(西應寺)


それにしても西應寺については、西應寺の由来として、
興味深い説明があったので、載せておきたい。

(田中山 相福院 西應寺は、応安元年(1368)妙賢法尼により草創されました。
妙賢法尼は前身を時姫と言い、鎌倉幕府執権・北条高時公の末娘に当ります。
時姫は父高時の自刃や一門の悲惨な終焉の模様を伝え聞き、
仏門に入りその菩提を弔うことを発願しました。
後に出家し妙賢法尼と称して、
この地に草庵を結び田中庵と号しました。
天正十九年(1591)には徳川家康公より寺領十石が寄贈され、
寺号が西往寺から現在の西應寺に改められました。
町名が西應寺町と呼ばれた所が朱印地の一部で、
境内地を含め9018坪という広大な寺領を有していました。
――中略――
安政五年(1858)日蘭通商修好条約が結ばれると、
同六年九月からオランダ公使館が寺内に置かれました。
その後、明治政府による神仏分離令、関東大震災を経て、
第二次世界大戦の空襲禍により、堂宇は烏有に帰す(*)も、
檀信徒を得て再興し、今日に至っています。)とある。

鎌倉時代末期の北条高時の娘が、
この世を哀れんで出家し西應寺の基礎となったようだ。

第一京浜国道を進むと、(旧海岸通り)と道路標識がある。
ここを越えてJR田町駅方面に、赤穂義士47士は進んだ。
(旧海岸通りの標識)

(*)烏有(うゆう)に帰す=「烏(いず)くんぞ有らんや」の意味で、
何も無くなってしまう事。
コメント (6)
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築地本願寺(忠臣蔵を歩く 7)

2014年01月06日 09時06分26秒 | ひとり歩き旅

(築地本願寺)
少し寄り道をして、本願寺築地別院行く。
東京に50年余も住んでいるのに、
築地本願寺に入ったのは今回が初めてのこと。
築地本願寺は京都の浄土真宗本願寺派の東京別院として立てられたが、
関東大震災で倒壊後、
インド様式によるエキゾチックな石造りの建物が作られたという。

築地本願寺に寄ったのには、二つの理由があります。
一つは、我が家の宗派が浄土真宗西本願寺であること、
今ひとつの理由は、忠臣蔵の赤穂義士の一人、間新六供養塔があり、
さらに芭蕉の句碑があることを知っていたからです。

門には「築地本願寺」と書かれており、門の内側は広場になっている。
広場の向こうに、説明した石造りの堂々とした建物が居座っている。
入り口の守衛さんに「お墓は何処にありますか」とお訪ねすると、
「ここにはお墓はありません。納骨堂はありますけど」の答え。
しかし、中央区の文化財マップには、日本画家の酒井抱一、間新六、
佃島の名主 森孫右衛門の供養塔があることが記載されている。
(築地本願寺の入り口)

「ありがとう」とお礼を言って、広い本堂前の広場を探して、
お墓のありそうな場所に検討をつける。
門を入って左手に、少し林があって、石碑らしきものが見える。
見当をつけて林のほうへ行くと、やはり供養塔があった。
ボクの好きな日本画家 酒井抱一供養塔があった。

酒井抱一について、
(酒井雅楽頭(うたのかみ)家の姫路藩主 酒井忠仰(ただもち)の
次男として生まれ、明和四年(1767)忠因(ただなお)と名乗る。
大名家の習いとして、武術、絵画、俳諧、狂歌などに親しむ。
寛政九年(1797)、37歳で西本願寺 文如上人に随い出家し、
「東覚院文詮暉真」と称します。
浅草千束に移住し、抱一と号します。
抱一は寛政年間後半ころから尾形光琳の画風に傾倒し、
文化12年(1815)には、移り住んだ下根岸の新居(後の雨華庵)で、
光琳の百回忌を営みました。
抱一は琳派の画風に諸派の技法を取り入れた独特の作風を確立し、
粋で瀟洒な江戸琳派を完成させます。代表作として
「光琳百図」「四季花鳥図屏風」「夏秋草図屏風」などを残しています。
文政11年(1828)根岸(現台東区)の雨華庵で没し、
築地本願寺に葬られました。)(東京都教育委員会)とある。

(酒井抱一の墓)

(抱一の日本画「夏秋草図屏風」の一部(我が家の壁にかけてある)


その隣に佃島の名主 森孫右衛門の供養塔があり、
さらにその隣に、赤穂浪士の間新六供養塔がある。

間新六について、
(間新六光風(1680~1703)は赤穂藩主浅野家臣間光延の次男として生まれ、
元禄14年(1701)三月藩主浅野長矩が殿中刃傷事件を起こし、
藩は改易となります。
新六は父及び兄光興とともにあだ討ちに加わり、元禄十五年12月14日
(1703年1月30日)に吉良上野介を討ち取り、
麻布の長府藩毛利邸へ預かりとなる、切腹します。
赤穂浪士の墓は主君長矩の墓のある泉岳寺にありますが、
新六は義兄中堂又助により、築地本願寺に埋葬されました。
泉岳寺にも供養塔はありますが、
本願寺に葬られた理由は、檀徒であったのか、
生前の意志によるものか不明です。)(東京都教育委員会)とある。

(森孫右衛門の供養塔)

(間新六の供養塔)

(芭蕉句碑)


その横に、芭蕉句碑があります。
風雨に曝され文字が見えなくなっていますが、
説明では、
・ 春もやや 景色ととのふ 月と梅 
築地本願寺はインド風の建物というが、インドでは仏教人口はたった2%であり、  残りがヒンズー教と言うから、
どちらかというとヒンズー教寺院といったほうが正しいのかもしれない。
インドを訪ねた時、道路を我が物顔で歩く牛、
駅構内のホームには良く反芻された牛の落し物が、至る所に落ちており、
踏まないように、ガイドさんから注意があった。
ヒンズー教では牛は神の使いとして、大事に扱われている。
道路を歩く牛を、車は避けて通らなければならない。

(石造りインド洋式の築地本願寺)

(インドの石造りの寺院)

(インドの石造りのフマユーン廟)


それでは築地本願寺の中へ入ってみましょう。
石段の階段を登り本堂に入る。
左右に下りの階段があり、
階段手すりに石の彫り物―牛、馬や獅子が置かれている。
(牛の彫像)

(馬と獅子の彫像)


中は広い畳敷きの部屋があるかと思ったが、
意外にも、沢山の椅子が正面の祭壇に向って並べてある。
ヨーロッパのカトリック教会の中に入ったようであった。
(きらびやかな祭壇)

(きらびやかな祭壇2)
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都史跡 浅野内匠頭屋敷跡(忠臣蔵を歩く 6)

2014年01月02日 10時00分56秒 | ひとり歩き旅

(浅野内匠頭屋敷跡)


(都史跡 浅野内匠頭屋敷跡)
「近代文化事始の地」の前の通りを、(聖ルカ通り)というが、
これを赤穂浪士四十七士がすすんだ道である。
ここを地下鉄築地駅方面に向う。

右手に「女子学院発祥の地」の石碑がある。
(ジュリア・カロゾルスが築地居留地に女子学院を創設)とある。
この辺り一帯は外国人居留地であったことが解かる。
その奥には、聖路加看護大学があり、
聖路加病院の戦前の旧病院があり、
その手前に右側に聖路加国際病院トイスラー記念館がある。
ここは昭和8年(1933)に聖路加国際病院の宣教師館として、
鉄筋コンクリート2階建てで、一見木造に見える。
(女子学院発祥の地)

(トイスラー記念館)


その左となりに見える旧病院入り口右手には、
コンクリート製の聖路加病院を現す英文で書かれた碑がある。
この石の碑には12個の丸い穴の跡が見えるが、
これは第二次世界大戦の戦時中、敵国の印しであるとして、
見えないように塞がれた跡を示していると説明書きがあった。

(12個の丸い穴があるSt Luke's International Medical Center)


なお先に進み、聖路加看護大学の入り口を右折すると、
芥川龍之介生誕の地の説明板がある。
これは写真をご覧戴きたい。

(この付近が芥川龍之介生誕地)


説明にあるように、35歳の若さでこの世を去っている。
以前、述べたかもしれないが、
文学は人生如何に生きるかを探求する学問で、
多くの文学者は、人生を先の先まで追究して行って、
無常観に行き着いたようだ。

(芥川龍之介生誕地の説明板)


芥川龍之介然り、三島由紀夫然り、
もっとも解かり易いのが、アーネスト・へミングウエイの「老人と海」。

「長い不漁の後で、大きな獲物のカジキマグロを、
命がけで釣り上げ、その獲物を港に曳航する間に、
サメに襲われ、散々戦った末に、サメを追い払うが、
港に着いたときは、獲物のカジキマグロはサメに喰われて骨だけが残っていた。」
こんなあらすじであったと思う。

人は、生まれて苦労して、苦労して歳を経て行く。
途中、ノーベル賞をもらえる様な偉業を成し遂げても、
結局は骨になるだけではないか。

そんなことをこの小説は教えている。
人生、どんなに努力しても、何も残らない。
それでは何かを成し遂げても何もならないのではないか。
そんな無常観に到達する。

否、そうではない、人生善い事をすれば、必ず報われる。
そのように救いの手を差し伸べたのが、宗教だと思う。

親鸞にいたっては、
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人おや」と説いている。
善人ですら極楽往生できるのに、どうして悪人が天国にいけないものか、
そんなことは無い、悪人こそ天国へ行けます、と説法した。

芥川龍之介は、おそらく悲観して、
あの世に旅立ったのではなかろうか。

話を元に戻すと、芥川龍之介の生誕地と同じ並びの少し先に、
浅野内匠頭邸跡の碑がある。

(浅野内匠頭邸跡の碑)


東京都中央区教育委員会の説明によると、
(播磨の国(兵庫県)赤穂藩主 浅野内匠頭長矩は、
元禄14年(1701)江戸城中で吉良上野介義央に対して、
刃傷事件を起こし、即日切腹を命じられて、
浅野家は断絶しました。
この地は浅野家の上屋敷があったところで、
忠臣蔵の舞台としてよく知られています。)とある。

今、ボクが歩いて居る道筋、
これこそ浅野内匠頭を中心とした話、忠臣蔵を歩いて居るのです。

やがて右手にしゃれた建物の築地警察署があり、
この裏手に中央区役所がある。

そして、直ぐ先に元築地川が流れていたが、
昭和39年(1964)東京オリンピックの際埋め立てられた。
今は橋だけが残っているが、「亀井橋」という。
橋の名は、架設した亀井氏の名に由来するものだそうです。
明治5年銀座大火の後、旧津和野藩主亀井氏によって架設され、
その名をつけたという。
(余談ですが、その子孫が参議院議員 亀井亜紀子さんという。
恐れ多くも津和野藩のお姫様である。)

(亀井橋)

赤穂浪士47士はなお直進して、昭和通りに出て、これを左折した。

(昭和通りの交差点)

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