「万葉の旅」の中に「城上の墓」と題された一篇がある。城上(きのえ)という地に、天武天皇の皇子高市皇子の殯宮が営まれたと言われている。また、延喜式には、高市皇子の墓は、「三立岡。大和国広瀬郡に在り。」と記されている。三立岡については、この本では、馬見丘陵の中にある見立山がそうではないかと推定されている。(しかしながら、見立山には該当しそうな古墳は見つかっていない。)
「万葉の旅」の中では、馬見古墳群の一つ、新木山古墳の写真を掲げている。新木山古墳については、三吉陵墓参考地として宮内庁が管理している。(この古墳の被葬者として想定されているのは、高市皇子の父親である天武天皇の祖父にあたる押坂彦人大兄皇子である。)
新木山古墳については、馬見古墳群の中で、巣山古墳に次いで大きい古墳であり、全長200m、後円部径117m、前方部幅118.5m、高さ19mとなっている。また、築造されたのは5世紀の前半とされている。押坂彦人大兄皇子が、6世紀後半の人物であるので、新木山古墳の被葬者と考えにくい。さらに、高市皇子とは考えにくい状況ではある。
古墳は、東西に横たわっており、南側は周濠が埋め立てられており、田畑になっている。
北側には、周濠が残っており、外堤も一部残っているところもある。
外堤に登って写真を撮ろうとしたらフェンスがないのにちょっと驚いてしまった。また、周濠の一部が拡張されており、ため池となっている。本来の周濠の幅は、20m前後であろうと考えられる。
北側から古墳を見た光景は、池の中に大きな島が横たわっているような感じで、壮大な感じを与えてくれる美しい古墳である。後円部の一部を除きほぼ一周できる。
話を少し戻そう。「万葉の旅」で城上の墓の項目に取り上げられているのは、柿本人麻呂は読んだ高市皇子に対する挽歌である。万葉集に収められている長歌の中でも、最長と言われている一首である。
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き
明日香の 真神の原に 久かたの 天つ御門を
畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠(いはがく)ります
やすみしし 我が王の きこしめす 背面(そとも)の国の
真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見(わざみ)が原の
行宮(かりみや)に 天降(あも)り座して 天の下 治めたまひ
食(を)す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の
御軍士(みいくさ)を 召したまひて 千磐(ちは)破る 人を和(やは)せと
奉(まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(ま)きたまへば
大御身(おほみみ)に 大刀取り帯ばし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし
御軍士を 率(あども)ひたまひ 整ふる 鼓の音は
雷の 声と聞くまで 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も
敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに
差上(ささ)げたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば
野ごとに つきてある火の 風の共(むた) 靡くがごとく
取り持たる 弓弭(ゆはず)の騒き み雪降る 冬の林に
旋風(つむし)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐(かしこ)く
引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱りて来(きた)れ
奉(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消ぬべく
去(ゆ)く鳥の 争ふはしに 度會(わたらひ)の 斎(いは)ひの宮ゆ
神風に 息吹惑はし 天雲を 日の目も見せず
常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を
神ながら 太敷き座(いま)す やすみしし 我が大王の
天の下 奏(まを)したまへば 万代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと
木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を
神宮に 装ひ奉(まつ)りて 遣はしし 御門の人も
白布(しろたへ)の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に
あかねさす 日のことごと 獣(しし)じもの い匍ひ伏しつつ
ぬば玉の 夕へになれば 大殿を 振り放け見つつ
鶉なす い匍ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど 侍ひかねて
春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに
憶(おも)ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済の原ゆ
神葬(かむはふ)り 葬り行(いま)して あさもよし 城上の宮を
常宮(とこみや)と 定め奉(まつ)りて 神ながら 鎮まり座(ま)しぬ
しかれども 我が大王の 万代と 思ほしめして
作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思(も)へや
天(あめ)のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども
赤文字の所が、「万葉の旅」で引用されているところである。全篇で149句に及ぶ長歌である。壬申の乱にて奮闘する高市皇子の姿を思い起こしながら、最後は皇子の死によって、宮廷人全体が大きな悲しみに包まれているという叙事詩的な要素を含んだ挽歌になっている。
高市皇子は天武天皇の第一皇子であり、持統天皇の時には、太政大臣にまで昇りつめている。高市皇子の子が、長屋王である。先ほども書いたように残念ながら高市皇子の墓所は明らかではない。この周辺にそれらしい古墳も残っていない。そのため、高松塚古墳がその墓所ではないかという説もある。
最後に、後円部の周濠を撮った写真。ちょっと本書に使われているものを意識してみた。
いかがであろう。
それから、新木山古墳に接するように三吉石塚古墳がある。
この古墳については、新木山古墳の陪冢と考えられている。(三吉石塚古墳から新木山古墳を写したもの。)
「万葉の旅」の中では、馬見古墳群の一つ、新木山古墳の写真を掲げている。新木山古墳については、三吉陵墓参考地として宮内庁が管理している。(この古墳の被葬者として想定されているのは、高市皇子の父親である天武天皇の祖父にあたる押坂彦人大兄皇子である。)
新木山古墳については、馬見古墳群の中で、巣山古墳に次いで大きい古墳であり、全長200m、後円部径117m、前方部幅118.5m、高さ19mとなっている。また、築造されたのは5世紀の前半とされている。押坂彦人大兄皇子が、6世紀後半の人物であるので、新木山古墳の被葬者と考えにくい。さらに、高市皇子とは考えにくい状況ではある。
古墳は、東西に横たわっており、南側は周濠が埋め立てられており、田畑になっている。
北側には、周濠が残っており、外堤も一部残っているところもある。
外堤に登って写真を撮ろうとしたらフェンスがないのにちょっと驚いてしまった。また、周濠の一部が拡張されており、ため池となっている。本来の周濠の幅は、20m前後であろうと考えられる。
北側から古墳を見た光景は、池の中に大きな島が横たわっているような感じで、壮大な感じを与えてくれる美しい古墳である。後円部の一部を除きほぼ一周できる。
話を少し戻そう。「万葉の旅」で城上の墓の項目に取り上げられているのは、柿本人麻呂は読んだ高市皇子に対する挽歌である。万葉集に収められている長歌の中でも、最長と言われている一首である。
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き
明日香の 真神の原に 久かたの 天つ御門を
畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠(いはがく)ります
やすみしし 我が王の きこしめす 背面(そとも)の国の
真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見(わざみ)が原の
行宮(かりみや)に 天降(あも)り座して 天の下 治めたまひ
食(を)す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の
御軍士(みいくさ)を 召したまひて 千磐(ちは)破る 人を和(やは)せと
奉(まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(ま)きたまへば
大御身(おほみみ)に 大刀取り帯ばし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし
御軍士を 率(あども)ひたまひ 整ふる 鼓の音は
雷の 声と聞くまで 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も
敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに
差上(ささ)げたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば
野ごとに つきてある火の 風の共(むた) 靡くがごとく
取り持たる 弓弭(ゆはず)の騒き み雪降る 冬の林に
旋風(つむし)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐(かしこ)く
引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱りて来(きた)れ
奉(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消ぬべく
去(ゆ)く鳥の 争ふはしに 度會(わたらひ)の 斎(いは)ひの宮ゆ
神風に 息吹惑はし 天雲を 日の目も見せず
常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を
神ながら 太敷き座(いま)す やすみしし 我が大王の
天の下 奏(まを)したまへば 万代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと
木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を
神宮に 装ひ奉(まつ)りて 遣はしし 御門の人も
白布(しろたへ)の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に
あかねさす 日のことごと 獣(しし)じもの い匍ひ伏しつつ
ぬば玉の 夕へになれば 大殿を 振り放け見つつ
鶉なす い匍ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど 侍ひかねて
春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに
憶(おも)ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済の原ゆ
神葬(かむはふ)り 葬り行(いま)して あさもよし 城上の宮を
常宮(とこみや)と 定め奉(まつ)りて 神ながら 鎮まり座(ま)しぬ
しかれども 我が大王の 万代と 思ほしめして
作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思(も)へや
天(あめ)のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども
赤文字の所が、「万葉の旅」で引用されているところである。全篇で149句に及ぶ長歌である。壬申の乱にて奮闘する高市皇子の姿を思い起こしながら、最後は皇子の死によって、宮廷人全体が大きな悲しみに包まれているという叙事詩的な要素を含んだ挽歌になっている。
高市皇子は天武天皇の第一皇子であり、持統天皇の時には、太政大臣にまで昇りつめている。高市皇子の子が、長屋王である。先ほども書いたように残念ながら高市皇子の墓所は明らかではない。この周辺にそれらしい古墳も残っていない。そのため、高松塚古墳がその墓所ではないかという説もある。
最後に、後円部の周濠を撮った写真。ちょっと本書に使われているものを意識してみた。
いかがであろう。
それから、新木山古墳に接するように三吉石塚古墳がある。
この古墳については、新木山古墳の陪冢と考えられている。(三吉石塚古墳から新木山古墳を写したもの。)
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