ウワナリ塚古墳から、ブドウ畑と竹林に挟まれた小道を歩いていくと、ちょうどウワナリ塚古墳の説明板を誉田あたりで、東海自然歩道と交わる。ここからは東海自然歩道を歩いていくことになる。竹林の中を歩いていると、右手に古墳の周濠の様なくぼみがあり、その向こうには墳丘らしきものが見える。そして、ちょうど歩いている辺りが外堤にあたるのだろう。
この周濠に沿って外堤の上を歩いていくと、石上大塚古墳と書かれた木の看板があり、矢印の通り右に曲がって、墳丘の中に入っていくことになる。入り口の所には、少し階段状になっているのだが、すぐになくなってしまう。
くびれ部の辺りから、後円部を半分ほど回って、南側に回り込む感じになる。
かなり急な坂を登っていくのだが、3~4年前にロープが張られており、それを使って横穴式石室の手前まで行くことができるようになった。ロープがない時は、かなり斜面が急なので、樹木や竹をつかみながら登るほかなく、特に下りは勢いがついて危なかった。
ロープが張られて、かなり安全にアクセスできるようになったのはありがたい。
さて、横穴式石室だが、すでにかなりの部分破壊されており、墳丘の一部がゴボッと削り取られている様子である。
天井石や側壁や奥壁の上部の石もなくなっている状態である。
ただ、くぼみの大きさからかなり大きな石室であったことは想像ができる。
石室の規模は、玄室の長さが約6.3m、奥壁の幅が2.8mの片袖式の横穴式石室であり、羨道を入れると10m近くあったのではないかと考えられている。なお石室は、南に向いて開口している。
奥壁で三段ほど残っているらしいのだが、かなり埋まっていて、2段目の石材しか確認はできなかった。この辺りの古墳は、桜井市の古墳と違って鏡石らしきものが使われてなさそう。
側壁も同様である。ただ袖石が残っているので左片袖式であることはわかる。
側壁にもかなり大きな石材が使われている。もし、きちんと残っていれば、巨大な横穴式石室だったのだろう。
墳丘のくぼみの深さで想像に難くない。
ちなみに、石室の床面には礫が敷かれ、凝灰岩で造られた石棺が置かれていたようだ。なお、墳丘では葺石が確認されているが、ウワナリ塚古墳のように埴輪は使われていない。
石上大塚古墳とウワナリ塚古墳とはかなり密接な関係にありそうで、うわなり塚古墳のウワナリとは後妻さんを意味する言葉なんだそうで、そうすると先妻は、石上大塚古墳となるのかな。
実際、両方とも6世紀後半の築造ではなるのだが、石上大塚古墳→ウワナリ塚古墳の順に造られたと考えられているようだ。
墳丘を降りて、東海自然歩道に戻り、少し先を歩くと、竹林をだた辺りに、天理砂岩と書かれた石と「狂心の渠」と書かれた説明板が置かれているところがある。
「狂心の渠」とは、この辺りで産出される石を運ぶために、斉明朝のときに造られた石上から飛鳥までの大運河のことである。
昔は、否定も肯定もされていなかったが、最近は積極的に肯定されている感じだね。
ここから、一旦道を引き返して、別所大塚古墳をめざすことにしよう。
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