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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

平城京朱雀大路及び右京一坊一・二坪発掘調査 現地説明会

2016-06-26 22:53:45 | 現地説明会
 平成28年3月11日(土)
 平城京朱雀大路の発掘調査ということで、昨年末にあった平城京右京一坊一坪・二坪・七坪・八坪の調査地と同じく元積水化学の工場跡地での調査となった。この日の、僕が調査地に訪れた時にはすでに多くに方が説明会を参加されていた。少し出遅れたこともあって、到着した時には、調査員の方の説明が始まっていたので、出土品の展示を見る。

 皇朝十二銭の最初、和同開珎と二つ目、萬年通宝が展示されている。ともに、今回の調査区で出土したとのこと。(北区の朱雀大路西側溝跡)

  

 和同開珎については、僕らが受験生の時には、最初の貨幣として覚えた記憶があるが、近年、無文銀銭や富本銭が発見され、最初の貨幣とは言われなくなった。ただ確実に全国的に流通した貨幣としての地位はそのままみたい。萬年通宝は、天平宝字4年(760年)に鋳造された。淳仁天皇の時代である。淳仁天皇自身は、天武天皇の直系とは違い、やや傍系になる。そういったことも、新しい貨幣の鋳造には影響したのかもしれない。

 今回は、朱雀大路の西側を、北区、南区の2か所に分けて調査されている。

 【北区】

 

 朱雀大路の西側溝が南北に検出されており、大路の東側には、護岸のための杭が、当時のままの姿で残っていた。溝の幅は、3mから4mほどであり、北から南に水が流れるように低くなっているとのこと。写真のにょろにょろと出ている黒い奴が杭である。平城京では、雨水だけではなく、邸内の生活排水や汚水なども側溝に流していたらしく、今でいう下水道のような役割をしていたと考えられている。

 

 また、東西の坪内道路が見つかっており、写真で、調査員の方の指し棒が示しているのが、北側溝の後である。南側の側溝は、後世の攪乱を受けており、未検出とのこと。

 

 坪内道路と朱雀大路との交差点には、西側溝の上に橋をかけていたのではないかと考えられる橋の柱も検出されている。ただ、自然流路も見つかっていることから、平城京の廃絶後は川の底になったところもあるようである。

 

 しかしながら、北区全体としては、建物があったと考えられるものは見つかっていない。

 【南区】

 

 朱雀大路と三条条間北小路との交差点で、三条条間北大路では、北側溝と南側溝がともに検出されている。溝の底は、西から東に向かって低くなっており、朱雀大路の西側溝に接続しており、最終的には、朱雀大路をずっと流れていって付近の川に接続しているのであろう。また、両側溝の心心間の幅は、約5.5mである。

 

 朱雀大路の西側溝であるが、まだ、掘られていないので、区域だけわかるようになっている。掘ると杭が出てくるのではないかとのことであった。

 

 朱雀大路の西側溝と三条条間北大路の南側溝との接続点から南にかけて側溝に瓦溜りが出来ている。この付近に瓦葺の建物があったことが想定される。

 

 瓦溜りである。昨年末に、橿原考古学研究所が調査した際にも、三条条間北大路の南側で築地の跡が見つかっていることから、三条条間北大路の南側には築地が続いていたと考えられる。これは、朱雀大路に接続して、そのまま南にし向かっていたのだろうと考えられている。

 今回の発掘で朱雀大路の横幅が、約74mであったことが判明したこと、一坊一坪にも坪内道路があったこと、一坪には、築地などの遮蔽施設がないことなどがわかった。特に、左京右京ともに三条一坊一坪に遮蔽施設がなく、広場的な空間であったと考えられている。

 

 復元された朱雀門と朱雀大路。実際は、現在復元されている道路よりも広いことが判明。当時の日本の一番の道路であり、両側に側溝があり、柳の木が植わっていたと考えられている。外国からの使者などもこの道を通ったのだろう。古代へのロマンを感じる。

 【参考リンク】
 
  平城京右京三条一坊一・二・七・八坪 
  

 

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