新聞で、寝屋川市にある高宮廃寺跡にて、発掘調査の現地説明会があるという記事を見つけた。最近、こういった発掘調査の現地説明会にはまりつつあり、これは行かなくてはということで、一路自転車に跨り高宮廃寺跡へ向かう。地図上は、一時間ちょっとの距離なのだが、高低差があることを忘れていた。第2京阪道路に入ってからの登り道、心臓が破裂するかと思うぐらいの坂道だった。丘陵を登り切ったところから、集落に入ると、高宮廃寺跡がある大杜御祖神社に出た。
到着した時には、午後の1時半くらいだったので、1回目の説明は終わっていた。
高宮廃寺跡については、昭和55年に国の史跡に指定されており、これまでの調査において、双塔式伽藍配置と推定され、出土した瓦から7世紀の後半の白鳳時代の創建と考えられている。また、発掘調査の結果、高宮廃寺は、白鳳時代に創建され、奈良時代にかけて営まれたのち、一時廃絶し、中世に一時期再建をされたと考えられている。
神社の境内には、堂塔の基壇と思われる高まりや礎石が残っている。
【金堂跡】
写真では、地面の盛り上がりがわかりにくいが、金堂の跡ではないかと思われる。周辺には礎石とおぼしき石がいくつか一か所に積み上げられていた。
【東塔跡】
【心礎】
本殿の東側に東塔跡があり、塔の心礎や礎石が露出している。ちなみに西塔跡は、本殿の下に眠っているということである。
【大杜御祖神社の本殿】
大杜御祖神社の祭神は、「天満魂命(あめのよろずたままつ)」という方なのだそうだ。そして、近くにある高宮神社の祭神「天剛風命(あめのこかぜのみこと)」の父神であるという。共に延喜式内社であり、古くからのこの土地の氏神であったのだろう。
境内地をぶらぶらと見学しているうちに、2回目の説明が始まったので、話を聞くことにした。
今回は、中門跡、東回廊、史跡の南側の部分の解明を目的に行われた。
【中門調査区】
中門の基壇の端が見つかり、中門の位置が確定したとのこと。今後、さらに調査区域を広げることにより、規模等を確定していく予定であるとのこと。高宮廃寺が建っている辺りは、もともと丘陵地であったため、寺院を建てるにあたっては、整地をして地面をならしたのちに基壇を作っているのだそうだ。
また、基壇については、版築によって造られたことが今回の調査で判明した。
よく見ると縞模様になっているのが何となくわかる。
さらに奥に入り、東回廊調査区に向かう。
【東回廊調査区】
工事用の柵の奥が調査区域である。手前には、礎石があった。
回廊基壇と考えられているところを発掘調査した結果、基底部の幅が2.7~2.9mであることが判明。回廊と考えるには幅が狭いことから、寺院を囲っているのは、回廊ではなく築地塀であったと考えられるに至ったとのこと。
【史跡南調査区】
史跡南2調査区からは、寺院の創建前の建物と考えられる竪穴式住居跡1棟が見つかっている。高宮廃寺跡の西側に高宮遺跡として、古墳時代の末期から飛鳥時代にかけての集落跡が発掘されている。それに関連する建物ではないかと考えられているようだ。
残念ながら南門調査区からは、南門を確認することはできなかった。周辺の地形を考えるとそんなに候補地があるとは思えないのだが、今後の発掘に期待をしましょう。
また、中門跡の周辺からは、奈良時代の瓦が出土している。
軒平瓦には、唐草文が見て取れる、
なお、神社の周辺のポケットパークにおいては、掘立柱の建物跡が復元されている。
遺跡の案内板には、高宮廃寺の復元予想図が描かれている。塔や金堂も周りを回廊が巡っている形になっているが、今回の発掘の成果によっては、書き換えられることになるのであろう。
また、周辺には神殿とおぼしき建物跡も見つかっていることから、氏神と氏寺が並列して建てられていたと考えられている。
最後に、高宮廃寺を建てた豪族が一体どういった一族なのかはわからないそうだ。ただ寺院を建てる前にこの地に住んでいた豪族なのだろう。ちなみに、この辺りには、秦氏と関係する遺跡も多い。高宮廃寺を建てたのはその一族なのかもしれない。
しかし、考えれば、文献にも出てこないような豪族ですら、双塔式の伽藍をもつ寺院を建立することができたということは、ちょっとした驚きである。
遺跡から目を離し、周囲を見てみると非常に紅葉のきれいな落ち着いた景色を見ることができた。
そして、神社のある高宮のあたりは、まだまだ一昔前の郊外の雰囲気が残っていて、牧歌的な風景が広がっていた。
到着した時には、午後の1時半くらいだったので、1回目の説明は終わっていた。
高宮廃寺跡については、昭和55年に国の史跡に指定されており、これまでの調査において、双塔式伽藍配置と推定され、出土した瓦から7世紀の後半の白鳳時代の創建と考えられている。また、発掘調査の結果、高宮廃寺は、白鳳時代に創建され、奈良時代にかけて営まれたのち、一時廃絶し、中世に一時期再建をされたと考えられている。
神社の境内には、堂塔の基壇と思われる高まりや礎石が残っている。
【金堂跡】
写真では、地面の盛り上がりがわかりにくいが、金堂の跡ではないかと思われる。周辺には礎石とおぼしき石がいくつか一か所に積み上げられていた。
【東塔跡】
【心礎】
本殿の東側に東塔跡があり、塔の心礎や礎石が露出している。ちなみに西塔跡は、本殿の下に眠っているということである。
【大杜御祖神社の本殿】
大杜御祖神社の祭神は、「天満魂命(あめのよろずたままつ)」という方なのだそうだ。そして、近くにある高宮神社の祭神「天剛風命(あめのこかぜのみこと)」の父神であるという。共に延喜式内社であり、古くからのこの土地の氏神であったのだろう。
境内地をぶらぶらと見学しているうちに、2回目の説明が始まったので、話を聞くことにした。
今回は、中門跡、東回廊、史跡の南側の部分の解明を目的に行われた。
【中門調査区】
中門の基壇の端が見つかり、中門の位置が確定したとのこと。今後、さらに調査区域を広げることにより、規模等を確定していく予定であるとのこと。高宮廃寺が建っている辺りは、もともと丘陵地であったため、寺院を建てるにあたっては、整地をして地面をならしたのちに基壇を作っているのだそうだ。
また、基壇については、版築によって造られたことが今回の調査で判明した。
よく見ると縞模様になっているのが何となくわかる。
さらに奥に入り、東回廊調査区に向かう。
【東回廊調査区】
工事用の柵の奥が調査区域である。手前には、礎石があった。
回廊基壇と考えられているところを発掘調査した結果、基底部の幅が2.7~2.9mであることが判明。回廊と考えるには幅が狭いことから、寺院を囲っているのは、回廊ではなく築地塀であったと考えられるに至ったとのこと。
【史跡南調査区】
史跡南2調査区からは、寺院の創建前の建物と考えられる竪穴式住居跡1棟が見つかっている。高宮廃寺跡の西側に高宮遺跡として、古墳時代の末期から飛鳥時代にかけての集落跡が発掘されている。それに関連する建物ではないかと考えられているようだ。
残念ながら南門調査区からは、南門を確認することはできなかった。周辺の地形を考えるとそんなに候補地があるとは思えないのだが、今後の発掘に期待をしましょう。
また、中門跡の周辺からは、奈良時代の瓦が出土している。
軒平瓦には、唐草文が見て取れる、
なお、神社の周辺のポケットパークにおいては、掘立柱の建物跡が復元されている。
遺跡の案内板には、高宮廃寺の復元予想図が描かれている。塔や金堂も周りを回廊が巡っている形になっているが、今回の発掘の成果によっては、書き換えられることになるのであろう。
また、周辺には神殿とおぼしき建物跡も見つかっていることから、氏神と氏寺が並列して建てられていたと考えられている。
最後に、高宮廃寺を建てた豪族が一体どういった一族なのかはわからないそうだ。ただ寺院を建てる前にこの地に住んでいた豪族なのだろう。ちなみに、この辺りには、秦氏と関係する遺跡も多い。高宮廃寺を建てたのはその一族なのかもしれない。
しかし、考えれば、文献にも出てこないような豪族ですら、双塔式の伽藍をもつ寺院を建立することができたということは、ちょっとした驚きである。
遺跡から目を離し、周囲を見てみると非常に紅葉のきれいな落ち着いた景色を見ることができた。
そして、神社のある高宮のあたりは、まだまだ一昔前の郊外の雰囲気が残っていて、牧歌的な風景が広がっていた。
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