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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

畝傍山周辺の御陵④ ~おまけ(イトクノモリ古墳、橿原神宮)

2017-12-16 11:03:28 | 史跡を歩く
 橿原考古学付属博物館から西へ向かって、国道24号線を越えると橿原神宮の大きな鳥居がある。この辺りは、奈良県の体育館や陸上競技場などがあり、この日も県下の中学や高校の大会があるのか多くの生徒、学生で賑わっていた。
 
 

 橿原神宮の大きな鳥居をくぐり、参道を歩いていくと左手に、イトクノモリ古墳へ向かう小さな径がある。この小径を歩いていくと、「イトクの森古墳(池田神社)」と書かれた看板と石碑が建っている。

 

 この看板と石碑の奥に少し高くなった所に、小さな祠が建っており、これが池田神社であり、その少し高まったところがイトクノモリ古墳である。全長約30mほどの小さな古墳ではあるが、正直古墳のようには、見えない。

 

 明治時代に、前方部が土取り削平されており、高まりの部分は後円部であるらしいのだが、どっちかというと、前方部と言われた方がしっくりくるかんじでもある。残存部分が四角くなっているように見える。

 

 この古墳の土取りの時に、いくつか弥生土器と思われるものや石器が出たことから、前方後円墳は、弥生時代に成立したという学説が明治時代の終わりごろに唱えられたことがあったらしい。しかしながら、弥生土器と思われたのは、古墳時代の土師器であったとされ、現在では、学説は否定されている。まだまだ、考古学の創成期の頃のエピソードである。ちなみに、イトクノモリ古墳は、古墳時代前期に築造されたという話もある。

 

 池田神社の祭神は、懿徳天皇とされ、このことから、幕末から明治にかけて、イトクノモリ古墳が、懿徳天皇陵であると考えられたこともあったらしい。その後、懿徳天皇陵でなければ、皇后陵ではないかとも言われたようだ。その根拠はわからない。適当な話もあったもんである。

 そして、橿原神宮である。
 橿原神宮の創建については、意外と新しい。長い間、それらしきものがずっとあって、近代天皇制の成立とともに大きくなったのかなと思ってたら全く違うらしく、1923年(明治23年)に創建されたもので、京都御所の賢所を移築して本殿として整備したものである。

 

 参拝に訪れたこの日は、七五三にあたるらしく、晴れ着を着た子どもや親たちが参拝に来ていた。最近は、祖父母だけではなくカメラマンまでついて来ているところもあるようだ。すごいなあ。

 橿原神宮の成立した年は、前年に大日本帝国憲法の発布がされ、この年に第1回の帝国議会が開かれた年でもある。近代天皇制の成立と橿原神宮との関係がわかるような気がする。天皇家は、ずっと昔から日本を治めていた神聖にして犯すべからざる存在になったのである。

 

 橿原神宮の外拝殿の回廊には、神武東征の物語が絵物語になって飾られている。最近の子なんかは、おそらく神武東征と言われてもピンとこないんじゃないのかな。日本史自体教わっていない子たちも多いらしい。

 

 国際化の時代だからこそ、自分の国の歴史や文化を知ることは必要だと思うが、変化な感じである。

 外拝殿には、酉年の大きな絵馬が飾られている。毎年、この絵馬の付け替えはニュースで報じられている。

 橿原神宮の外苑には、深田池と呼ばれる大きなため池がある。

 

 推古天皇の時期に造られた畝傍池であるとも、奈良時代に造られたものであるとも言われている。スイセンの名所でもあるらしいが、ここから見るなかなか美しい。

 この池には橋が架かっており、対岸に渡ることも可能である。(この橋は、昔からあったんだろうか?小さいころ来た時には、橋などはなかった記憶があるのだが・・・。)

 

 写真には写っていないが水鳥が多く集まってくる場所でもあるらしい。

 

 深田池の森の裏側を近鉄電車が走っており、西の鳥居を出ると橿原神宮西口駅はすぐである。

 


 

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