東大寺三月堂である。東大寺というお寺については、奈良国立博物館とかに来たついでにぶらっと立ち寄ることが多いのだが、意外とお堂の中に入るというのはこれまであんまりなかったような気がする。先日、東大寺で東塔院の発掘調査があり、その現地説明会に行ったついでに、少しせっかくだから、どこか行ってみようということで、東大寺の三月堂に行ってみることにした。
三月堂については、向かって左側の奈良時代に造られた正堂と右側の鎌倉時代の礼堂から成り立っている。数多くある東大寺の建造物の代表的なものの一つとして国宝にも指定されているのだが、お寺からもらったしおりを見てちょっと???。「近年の調査や研究により、法華堂に使われている構造材の一部に729年や731年に伐採されたヒノキ材が使用されている」とある。741年に国分寺建立の詔があり、743年に大仏造立の詔が出ていることから東大寺の建設は、それ以降になると思われるので、年代が合わないのかと思って調べてみると、どうやら東大寺の前進として金鍾寺というお寺があり、それが東大寺に改められたのだという。だからすでに大仏の建立が始まった時には、三月堂をはじめ、いくつかの堂塔が出来ていたのであろう。
三月堂には、礼堂の方から入ることになる。
礼堂の南側にある石灯籠は鎌倉時代のもので国の重要文化財になっている。
靴を脱いでお堂に入っていくと、、狭い堂舎の中に所狭しと並んでいる仏像の姿に圧倒される。思わずすげぇと声が漏れてしまう。9体の並んでいる姿は本当に壮観の一言。
このブログでたびたびお世話いなっている堀辰雄の「大和路」の中にも三月堂のことが取り上げられている。
少し引用してみよう。
「月光菩薩像。そのまえにじっと立っていると、いましがたまで木の葉のように散らばっていたさまざまな思念ごとそっくり、その白みがかった光の中に吸いこまれてゆくような気もちがせられてくる。何んという慈いつくしみの深さ。だが、この目をほそめて合掌をしている無心そうな菩薩の像には、どこか一抹の哀愁のようなものが漂っており、それがこんなにも素直にわれわれを此の像に親しませるのだという気のするのは、僕だけの感じであろうか。……
一日じゅう、たえず人間性への神性のいどみのようなものに苦しませられていただけ、いま、この柔かな感じの像のまえにこうして立っていると、そういうことがますます痛切に感ぜられてくるのだ。」
残念ながら、堀辰雄が見た月光菩薩は、三月堂にはなく、近年建てられた東大寺ミュージアムにて展示されている。東大寺ミュージアムには、月光菩薩像の他日光菩薩像、吉祥天像、弁財天像が移っている。これらの仏像は、塑像であるため、免震機能のある東大寺ミュージアムに収蔵されている。
圧巻は、金剛力士像ではなかったか。特に左手にいる阿形の造形は、躍動感があり、素晴らしく見ているものに訴えかけるものがある。その他の四天王像にしても、実にいきいきと造形されている。これが1300年もの昔に造られたものなのである。これらの仏像は、よく奈良の観光ポスターに使われている気がする。
三月堂の本尊は、不空羂索観音というあまり名前を聞かない仏様である。獲物を捕らえるようにもれなく人々を救済し、願いを空しくすることがない観音さまである。観音像の頭部に飾られている宝冠も奈良時代の工芸遺品であり、世界三大宝冠の一つなのだそうだ。(残念ながら、あと2つは知らない。)この仏像も奈良時代の逸品なのだが、どうやら光背の位置が奈良時代に造られたときより少し下がっているのだという。本来頭の位置に来るべきところのものが、かたのところにまで下がっているのだそうだ。
また、不空羂索観音像の背後に厨子は安置されており、秘仏執金剛神像が納められている。
三月堂に並んでいる諸仏は、天平彫刻の完成形だとも言われている。とにかく、凄い。凄すぎて消化不良になっちゃう。
三月堂の南側にある校倉造の建物は、三月堂の経庫であり、平安時代の建造物である。これも重要文化財に指定されている。三月堂から外に出ると紅葉の下に鹿が立っていた。花札みたいと撮った写真かこれである。
三月堂の南には、手向山八幡宮がある。
菅原道真が、「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んだ所である。
三月堂については、向かって左側の奈良時代に造られた正堂と右側の鎌倉時代の礼堂から成り立っている。数多くある東大寺の建造物の代表的なものの一つとして国宝にも指定されているのだが、お寺からもらったしおりを見てちょっと???。「近年の調査や研究により、法華堂に使われている構造材の一部に729年や731年に伐採されたヒノキ材が使用されている」とある。741年に国分寺建立の詔があり、743年に大仏造立の詔が出ていることから東大寺の建設は、それ以降になると思われるので、年代が合わないのかと思って調べてみると、どうやら東大寺の前進として金鍾寺というお寺があり、それが東大寺に改められたのだという。だからすでに大仏の建立が始まった時には、三月堂をはじめ、いくつかの堂塔が出来ていたのであろう。
三月堂には、礼堂の方から入ることになる。
礼堂の南側にある石灯籠は鎌倉時代のもので国の重要文化財になっている。
靴を脱いでお堂に入っていくと、、狭い堂舎の中に所狭しと並んでいる仏像の姿に圧倒される。思わずすげぇと声が漏れてしまう。9体の並んでいる姿は本当に壮観の一言。
このブログでたびたびお世話いなっている堀辰雄の「大和路」の中にも三月堂のことが取り上げられている。
少し引用してみよう。
「月光菩薩像。そのまえにじっと立っていると、いましがたまで木の葉のように散らばっていたさまざまな思念ごとそっくり、その白みがかった光の中に吸いこまれてゆくような気もちがせられてくる。何んという慈いつくしみの深さ。だが、この目をほそめて合掌をしている無心そうな菩薩の像には、どこか一抹の哀愁のようなものが漂っており、それがこんなにも素直にわれわれを此の像に親しませるのだという気のするのは、僕だけの感じであろうか。……
一日じゅう、たえず人間性への神性のいどみのようなものに苦しませられていただけ、いま、この柔かな感じの像のまえにこうして立っていると、そういうことがますます痛切に感ぜられてくるのだ。」
残念ながら、堀辰雄が見た月光菩薩は、三月堂にはなく、近年建てられた東大寺ミュージアムにて展示されている。東大寺ミュージアムには、月光菩薩像の他日光菩薩像、吉祥天像、弁財天像が移っている。これらの仏像は、塑像であるため、免震機能のある東大寺ミュージアムに収蔵されている。
圧巻は、金剛力士像ではなかったか。特に左手にいる阿形の造形は、躍動感があり、素晴らしく見ているものに訴えかけるものがある。その他の四天王像にしても、実にいきいきと造形されている。これが1300年もの昔に造られたものなのである。これらの仏像は、よく奈良の観光ポスターに使われている気がする。
三月堂の本尊は、不空羂索観音というあまり名前を聞かない仏様である。獲物を捕らえるようにもれなく人々を救済し、願いを空しくすることがない観音さまである。観音像の頭部に飾られている宝冠も奈良時代の工芸遺品であり、世界三大宝冠の一つなのだそうだ。(残念ながら、あと2つは知らない。)この仏像も奈良時代の逸品なのだが、どうやら光背の位置が奈良時代に造られたときより少し下がっているのだという。本来頭の位置に来るべきところのものが、かたのところにまで下がっているのだそうだ。
また、不空羂索観音像の背後に厨子は安置されており、秘仏執金剛神像が納められている。
三月堂に並んでいる諸仏は、天平彫刻の完成形だとも言われている。とにかく、凄い。凄すぎて消化不良になっちゃう。
三月堂の南側にある校倉造の建物は、三月堂の経庫であり、平安時代の建造物である。これも重要文化財に指定されている。三月堂から外に出ると紅葉の下に鹿が立っていた。花札みたいと撮った写真かこれである。
三月堂の南には、手向山八幡宮がある。
菅原道真が、「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んだ所である。
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