三条通を越えると寺町通はアーケード街になる。和菓子屋や古書店などこれまたいろいろな店舗が軒を並べるのだが、所々にシャッターが閉じたままになっているところもある。
昔に比べると人通りも少なくなったような気がする。学生の頃は、この辺りは観光客や修学旅行生でごった返していたのだが・・・。もしかしたらコロナ禍が終わって観光客が帰ってくれば、元の通りになるのかもしれない。
そして、寺町通を下るとすぐの所に本能寺がある。かの有名な「本能寺の変」の本能寺である。
1582年、織田信長が明智光秀の謀反に遭い、自刃して五十年の人生を閉じたあの本能寺である。
本能寺の表門を入ると、ビルディングの間に広い境内があり、宝物殿や本堂があった。本能寺の境内のすぐ隣のホテル本能寺という宿泊施設があり、多くの修学旅行生たちが利用していた。
まず境内に入ると正面にあるのが本堂である。この本堂は昭和3年に再建されたもので、登録文化財になっている。
本堂の裏に回ると、織田信長や本能寺の変の犠牲者の供養塔などがある。信長の供養塔には、信長の愛刀を納めたと伝わる。
実は、織田信長の墓所と伝わるところは、全国で15か所、京都市内だけでも5か所あるらしい。(本能寺、大徳寺総見院、阿弥陀寺、大雲院、妙心寺玉鳳院の5カ所)
そして、この本能寺、織田信長の時代は別の場所、四条西洞院通の辺りにあった。(最初は五条坊門辺りに創建されたのが始まり、しばらくして、四条坊門辺りに移転するも、天文法華の乱にて焼き討ちにあい、堂宇ことごとく焼けつくしたという。そして日承上人(伏見宮邦高親王の子)により再建された。本能寺の変で織田信長が明智光秀の襲撃を受けたのはこの地である。
境内の隅に日承上人(日承王)の墓所があったが、皇族のお墓であるため宮内庁が管理している。また境内の隅には、徳川家重の正室増子女王、菅中納言局五条庸子、島津義久継室円信院出殿の三方のお墓が連なるように置かれていた。
本能寺は、後に豊臣秀吉による京都改造により、天正19(1591)年現在の地に移転した。その頃は、寺地はかなり広大であったらしく、今の京都市役所なども本能寺の境内であったという。
本能寺の「のう」にあたる部分の字について、能という字を使っていないのは、「度重なって焼き討ちに遭っているため、匕(火)を嫌いの字に替えたものである」とのことであるが、実際は能という字の古い字体であるようである。
最後に、僕がこの本能寺に初めて足を踏み入れたのはほんの数年前。何十回もこの前を通ってたのに一度も入ったことがなかった。まあ、京都の学生には、ありがちな話ではあるが。
この時、境内には、刀剣乱舞や鬼滅の刃といったアニメなどの影響なのか、多くの若者たちの姿が見られた。時代の流れを痛切に感じたなあ。
そういえば、大河ドラマ「どうする家康」もそろそろ本能寺の変がドラマの中で描かれることになりそうだな。どんな映像になるのか、少し楽しみではある。
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