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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

京の伝説を歩く⑨ へそ石・六角堂

2019-08-13 00:39:13 | 史跡を歩く

 京都は三条通りのもう一本南に六角通と呼ばれる東西の道があり、烏丸通とほぼ交わる場所に西国三十三ヶ所の札所六角堂(頂法寺)がある。六角堂の通称名は、頂法寺の本堂が六角形をしていることから、この名が一般に広まったものである。

 

 頂法寺こと六角堂の創建は、飛鳥時代、聖徳太子と関連すると言われている。聖徳太子の念持仏であった如意輪観音に、物部守屋との戦いに勝ったならば、四天王寺を建立すると先勝祈願をしたところ、無事勝利し、四天王寺を建てるための木材を探しにこの地に来たところ、池があり、如意輪観音を木の枝にかけ、水浴びをした後、木の枝から観音を外そうとしたが外れなかったため、この地にお堂を建て、如意輪観音を祀ることにしたという。

 実際は、周辺発掘調査で、飛鳥時代の遺構は検出されておらず、10世紀ごろの創建ではないかと考えられている。

 

 ただ、頂法寺は、創建から、京の街なかにあったためか、貴族とかではなく、多くの民衆の信仰を集めたところとなり、西国33ヶ所霊場の18番の札所となっており、今でも多くの参詣者でにぎわっている。

 その頂法寺の、さほど大きくない境内の中、本堂の向かって右側に六角形の小さな真ん中に穴の開いた石が置かれている。これが、「へそ石」と呼ばれる石である。

 

 へそ石と呼ばれる所以は、京の真ん中を示しているという謂れから来ている。そして、へそ石には次のような言い伝えがある。

 平安京に都が遷る前のこと、平安京の造営にあたり、条坊道路が頂法寺のかかって邪魔になることから取り壊されそうになったところ、一夜にして、15mほど北方に移動し、その時に残された礎石がへそ石だと言われている。明治までは本当に六角通にあったそうだが、いつしか境内の中に置かれるようになったらしい。聖徳太子の創建という由緒から来ている伝説なのであろう。

 

 正直、このへそ石が何であったのかわからない。見るところ寺院の礎石ではなさそうだ。石燈籠の土台ではないかとも言われる。その方が蓋然性が高そうな気がする。

 六角堂の狭い境内の中には、聖徳太子との関わりをもつものがいくつかある。

 

 聖徳太子二歳像(南無太子像)を安置する太子堂や聖徳太子沐浴の池と伝わる池がある。

 その池には、白鳥が気持ちよさそうに水面を泳いでいるのだが、池の柵には、下記のような看板がかかっている。

 

 はて、白鳥はかみつくのだろうか?不思議な気がする。

 中世は、聖徳太子信仰が非常に盛んであったから、その時に聖徳太子と結びついたのかな。

 六角堂は、中世、特に応仁の乱以後、町堂として、町衆の自治の拠点として栄えた。下京の地に危機が及びとお寺の早鐘が鳴らされたりしたそうだ。また、天文法華の乱では、町衆の結集地として軍勢の拠点となった。

 

  六角堂の鐘は、境内の外、道を挟んだ向かい側にある。

 最後に六角堂の僧坊の一つに池ノ坊があり、六角堂を執行職を務めていた。これが華道の家元池坊である。境内の隅には、池坊会館という大きなビルがある。

 その関係かお参りする人に女性が多い気がする。今なお、多くの人の信仰を集めているお寺である。

 

 本堂の周りにずらっと並べられているこのひよこのような置物は何であろうか???教えて下さい。


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