花園西陵からさらに北へ向かって歩いていくと、名勝双ヶ岡の麓に長泉寺という、これまた小さいお寺がある。門の前に「兼好法師舊跡」と書かれた石碑が建てられている。
残念ながら、中は非公開で見ることができないのだが、徒然草の作者として知られる兼好法師(吉田兼好)の墓所として伝えられている。
兼好法師については、1283年生まれで、1350年、68歳で亡くなったと言われている。鎌倉時代の末期から南北朝時代という戦乱の世に生きた人である。但し、生年は、没年と伝えられている1350年からの逆算であり、しかも近年、1350年観応元年以後に書かれたであろう文字資料も発見されており、生年没年に関しては不詳とせざるをえないそうだ。
ただし、双ヶ岡の周辺に隠棲をしていたのは、事実なようで、徒然草にも近く仁和寺のことなどがよく取り上げられている。また自身双ヶ岡に葬られたという言い伝えもある。
しかしながら、長泉寺にあるお墓も、双ヶ岡に葬られたという伝説に基づいて、江戸時代になって、作られたもののようだ。その横には「契り置く花とならびの岡の辺に 哀れ幾代の春をすぐさむ」の歌碑も建てられているという。
長泉寺を、さらに北に行き、新興住宅地の横にある公園に、下記のような碑が建っていた。
「オムロン発祥の地」
体温計などで知られるオムロンは、本来は立石電機という名前だったそうだ。御室に会社があったから、御室→おむろ→オムロン、ばんざーいである。情けない話であるが、この地に来るまで、オムロンが京都の会社であるということも全く知らなかった。
私は、体温計に弱く、体温計で体温を測った場合、それまでどんな元気でも、37℃の数値を越えたのを見た時点でぐたっとなってしまう。暗示にかかりやすいと言えばそうなのかもしれないが、情けない体質である。
この石碑のある公園の向こうには、御室御所と呼ばれる仁和寺の門が見えている。その間には嵐電北野線が走っている。
この日は、真夏のような陽ざしであったので、双ヶ岡に登るのはあきらめ、これから、線路沿いに歩いて、妙心寺に向かうことにした。
残念ながら、中は非公開で見ることができないのだが、徒然草の作者として知られる兼好法師(吉田兼好)の墓所として伝えられている。
兼好法師については、1283年生まれで、1350年、68歳で亡くなったと言われている。鎌倉時代の末期から南北朝時代という戦乱の世に生きた人である。但し、生年は、没年と伝えられている1350年からの逆算であり、しかも近年、1350年観応元年以後に書かれたであろう文字資料も発見されており、生年没年に関しては不詳とせざるをえないそうだ。
ただし、双ヶ岡の周辺に隠棲をしていたのは、事実なようで、徒然草にも近く仁和寺のことなどがよく取り上げられている。また自身双ヶ岡に葬られたという言い伝えもある。
しかしながら、長泉寺にあるお墓も、双ヶ岡に葬られたという伝説に基づいて、江戸時代になって、作られたもののようだ。その横には「契り置く花とならびの岡の辺に 哀れ幾代の春をすぐさむ」の歌碑も建てられているという。
長泉寺を、さらに北に行き、新興住宅地の横にある公園に、下記のような碑が建っていた。
「オムロン発祥の地」
体温計などで知られるオムロンは、本来は立石電機という名前だったそうだ。御室に会社があったから、御室→おむろ→オムロン、ばんざーいである。情けない話であるが、この地に来るまで、オムロンが京都の会社であるということも全く知らなかった。
私は、体温計に弱く、体温計で体温を測った場合、それまでどんな元気でも、37℃の数値を越えたのを見た時点でぐたっとなってしまう。暗示にかかりやすいと言えばそうなのかもしれないが、情けない体質である。
この石碑のある公園の向こうには、御室御所と呼ばれる仁和寺の門が見えている。その間には嵐電北野線が走っている。
この日は、真夏のような陽ざしであったので、双ヶ岡に登るのはあきらめ、これから、線路沿いに歩いて、妙心寺に向かうことにした。
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