大阪には、聖徳太子にまつわる寺院として、叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺などがあり、それぞれ「上ノ太子」「中ノ太子」「下ノ太子」と呼ばれている。今回は、竹内街道沿いにある「野中寺」を取り上げてみたい。野中寺については、寺伝によると、聖徳太子が建立した寺院であるとの言い伝えから「中ノ太子」と言われているが、本来は、渡来系の氏族である船氏の氏寺であったと考えられている。
創建は、定かではないが、発掘調査にて出土した平瓦に、「庚戌年」の記述があるものがあり、庚戌が650年にあたることから、飛鳥時代、大化の改新のころに建てられたようである。
野中寺に行ってみたかったのは、ここの塔跡の礎石に亀の顔が残っていて、飛鳥の亀石との類似を河上邦彦氏の著作で目にしたからである。
●野中寺の塔跡
●塔の心礎
写真ではっきりは分からないが、確かに亀の顔が書かれている。案内板では、飛鳥時代からのものであるとのこと。顔もよく見てみると飛鳥の亀石とよく似ているような気がする。ちなみに河上氏は、亀石について、野中寺の塔の心礎などを例に挙げ、亀石が、塔などの礎石として作られていたものが、何らかの理由により、放棄されたものではないかと述べている。
ちなみに亀石の表情はこんな感じ。
●飛鳥の亀石
ただ、比べてみると野中寺の礎石の方が、平面的ではある。
なぜ亀なのか、亀が世界を背負うという世界観が仏教にはあったという。その影響なのかもしれない。
また、野中寺は、白鳳期の名品と言われる金銅弥勒菩薩半跏思惟像でも知られる。僕も何度か博物館で目にしたことがある。この日は、宝物館がお休みで見ることが出来なかった。
境内には、金堂跡などもあり、飛鳥時代の寺院の痕跡が残っているということで国の史跡になっている。
●金堂跡
●野中寺本堂
お寺自体は訪れる人も少ない様子で落ち着いたたたずまいを見せている。ほんの数十メートル先を外環状線がとおっているとは思えないほどだ。ちなみに野中寺の前の道は竹内街道です。この道の先には、多くの著名な古墳や寺院があります。
その他境内には、近くのヒチンジョ池古墳で発掘された横穴式石槨が保存されている。凝灰岩で作られており、7世紀後半に作られたものと言われている。
中には、木棺が埋葬されていたと想定されている。
☝最後に、よく国際交流のシンボルのように、この石像を見かけるのだが、詳しいことがどこにも書いていずわからない。気にはなっているのだけども・・・。
創建は、定かではないが、発掘調査にて出土した平瓦に、「庚戌年」の記述があるものがあり、庚戌が650年にあたることから、飛鳥時代、大化の改新のころに建てられたようである。
野中寺に行ってみたかったのは、ここの塔跡の礎石に亀の顔が残っていて、飛鳥の亀石との類似を河上邦彦氏の著作で目にしたからである。
●野中寺の塔跡
●塔の心礎
写真ではっきりは分からないが、確かに亀の顔が書かれている。案内板では、飛鳥時代からのものであるとのこと。顔もよく見てみると飛鳥の亀石とよく似ているような気がする。ちなみに河上氏は、亀石について、野中寺の塔の心礎などを例に挙げ、亀石が、塔などの礎石として作られていたものが、何らかの理由により、放棄されたものではないかと述べている。
ちなみに亀石の表情はこんな感じ。
●飛鳥の亀石
ただ、比べてみると野中寺の礎石の方が、平面的ではある。
なぜ亀なのか、亀が世界を背負うという世界観が仏教にはあったという。その影響なのかもしれない。
また、野中寺は、白鳳期の名品と言われる金銅弥勒菩薩半跏思惟像でも知られる。僕も何度か博物館で目にしたことがある。この日は、宝物館がお休みで見ることが出来なかった。
境内には、金堂跡などもあり、飛鳥時代の寺院の痕跡が残っているということで国の史跡になっている。
●金堂跡
●野中寺本堂
お寺自体は訪れる人も少ない様子で落ち着いたたたずまいを見せている。ほんの数十メートル先を外環状線がとおっているとは思えないほどだ。ちなみに野中寺の前の道は竹内街道です。この道の先には、多くの著名な古墳や寺院があります。
その他境内には、近くのヒチンジョ池古墳で発掘された横穴式石槨が保存されている。凝灰岩で作られており、7世紀後半に作られたものと言われている。
中には、木棺が埋葬されていたと想定されている。
☝最後に、よく国際交流のシンボルのように、この石像を見かけるのだが、詳しいことがどこにも書いていずわからない。気にはなっているのだけども・・・。
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