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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

貝吹山周辺の古墳を歩く③ ~益田岩船~

2023-04-22 22:26:27 | 古墳紀行

 沼山古墳から少し道を戻って、今度は益田岩船への登り口に到着する。登り口には、益田岩船についての解説板が立てられている。ここからの登り道は、意外ときつい。はじめは階段になっているので、すいすいと登っていくが、しばらくすると急坂の山道になる。ここで何とこれまでお世話になった橿原市の職員の方と偶然出会う。せっかくなので様子を見に来たとのこと。これからの予定を話すと健脚ですねえと笑っておられた。まあ、世にマニアの種は尽きまじというところか。

 

 以前は、この道、途中からロープが張られており、それを使わないと登れなかったのだが、最近、整備されたのかロープを使わなくても登れるようになっていた。

 

 山腹には、石切場のように岩石が露出している場があり、益田岩船に使われた石材などもこの辺りから切り出されたのかもしれない。

 

 山道を登っていくと、次第に山の姿が、雑木林から竹林に変わっていく。そして、竹林の中を進んでいくと突然のっそりと巨象にような益田岩船の姿が現れてくる。

 

 益田岩船は、丘陵の斜面に置かれており、東西約11m、南北約8m、高さ約5mの大きさを誇る。上部には、帯状の掘り込みがあり、正方形の穴が二つ彫られてる。石の南側からは周囲の地面が高くなっているので、頑張れば、岩船の上に登ることができる。(あまりおススメはしない。)

 

 今回、同行のメンバーの協力(?)もあり、数人がかりで、頂上に押し上げられてしまった。岩船に取りついたときに、本心は、これだけの高さがあるのだから登れないですねという意思表示だったのだが、真逆のことになってしまった。なかなかコミュニケーションというものは難しい・・・。

 

 上に上がっても、正直高い所は全然ダメなので、座っているだけで、早々に下に降りた。ただ、僕が登ることで、みんな、やれるじゃんという気になり、ほぼ、みんなが上にあがっていた。(笑)

 

 少し古い本などでは、この益田岩船のある丘陵から、益田岩船と眼下の白橿団地などの姿が見えている写真をよく使っているのだが、現在は、竹林となっていて、眺望は全く効かない。益田岩船については、古くから観光の名所として知られていたようで、江戸時代の「大和名所図会」などにも取り上げられている。当時の絵を見ると、丘陵の上に、ポツンと益田岩船だけが置かれており、丸坊主のような感じだ。周囲が竹林になったのは、ほんとごく最近のことのようだ。

 

 この益田岩船が何なのかは、古くは、益田池の記念碑の台石ではないかという説があり、その後諸説あり、作家の松本清張のゾロアスター教の拝火台説もよく知られたものである。僕的には、諸星大二郎の「暗黒神話」でタイムカプセルのように使用されていたのが印象深い。

 

 最近では、古墳の横口式石槨を作っている途中で何かしらの不具合があり、放棄されたという説が近年有力になっている。石の周りを見ても、石をはつるために格子状に刻みが入れられており、それが途中で放棄されているように見える。また横に倒すと近くにある牽牛子塚古墳の横口式石槨とよく似ていると言った所であろう。今のところ、この横口式石槨の未完成放棄説が一番妥当だと思う。

 

 このあと、益田岩船のある場所から、山の中腹を縦断して牽牛子塚古墳の傍に出るルートを取った。これも想像以上に山の中を歩く感じで、途中倒木などもあり、険しい道を通ることになってしまった。

 

 いのししよけのゲートをくぐって、牽牛子塚古墳の裏に出るが、令和の古墳と化した牽牛子塚古墳には、興味がないということで、全くの素通り。入れないはずの真弓鑵子塚古墳の傍を通って、乾城古墳をめざす。

 

 途中、横穴かと思う穴が道のわきにいくつもあるのだが、生姜などの貯蔵庫なんだそうだ。紛らわしいな(笑)


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