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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

謎とき本能寺の変

2007-01-08 18:39:57 | 読書日記
 謎とき本能寺の変
 藤田 達生 著  講談社現代新書
そういえばお正月テレビで明智光秀をドラマでやってましたね。全く見ていないので、それに影響されたと言うわけではないのですが、明智光秀関係とも言える本です。何故明智光秀は織田信長に叛旗を翻し、信長を討ったのか、いわゆる本能寺の変を何故起こしたのかと言うことを解いた本です。
 いろいろと本能寺の変については言われています。一番よく言われているのが怨恨説というやつです。但し怨恨説については史料的に根拠が薄いような気がしています。結構後世の講談による話などを根拠にしています。また、光秀ほどの人物が怨恨と言う理由だけで今まで取り立ててもらった信長に叛旗を翻すだろうか。それにしては事後処理もつたなすぎるような気がします。
 最近は、もっと政治的な背景を理由にしているような気がします。その理由の一つとしては、安土城の発掘が進んで、いろんな新しい知見がもたらされたところが大きいような気がします。安土城には、都の清涼殿風の建築物があったと言いますし、自身を神として祭らせようとしていたとも言われています。従来の権威をも乗り越えようとしていたと言うことだろうと思います。そうしたことに対する危機意識というのは当時の朝廷や貴族層にはあったような気がします。
 明智光秀自身、もともとは15代将軍足利義昭について、信長もとにきた人物であり、茶道やお花など都の文化に造詣の深かったといわれています。そうしたことを考えると、信長の家臣団の中で一番朝廷に理解ある立場にあったと言えるのではないでしょうか。このことが本能寺の変を考える鍵のような気がします。
 本書で、光秀の謀反の背景には、足利義昭がいると説明しています。義昭は、1573年、織田信長に叛旗を翻すも、逆に京の地から河内に追いやられたが、それ以後も将軍職にあったと言います。教科書的な理解では、15代将軍が京を終われた事により室町幕府が滅んだと言うことになります。しかし将軍でなくなったとは、書いていないんですよね。逆にこの時代になると京に将軍がいないことの方が常態になっていたとも思える状況になったのは間違いなく、9代義尚以降まともに京の地で死を迎えた将軍が一人もいないことを考えるともっと早く滅亡していたと言えるかもしれないと思ったりします。
 本書では、四国征伐を契機に主流から外れた明智光秀を巻き込んで、当時毛利方に身を寄せていた足利義昭らが起こした政変劇としています。
 ただ考えれば毛利方がこの政変劇を知らないはずはないはずだし、むしろ足利義昭を前面に立ててせめていけば、もっと違った展開が生まれていたような気もします。本書では、毛利方としては中国地方の支配権さえ確保できれば、戦をする気はなく、そのタイミングを計っていただけだと述べています。(まあ毛利輝元に関しては、関が原の戦いでも大阪城にいただけですもんね。あの時秀頼を担ぎ上げて戦場の方に行ったとしたらどうなっていたでしょうか?)また政変後、足利義昭の名を挙げて諸将に呼びかけを行った形跡もないようですし、足利義昭単独の陰謀説というのはむずかしいような気がします。
 ただ朝廷とは密接な関係をとっていたようですし、一説には征夷大将軍に任じられたと言う話もあります。こうなると朝廷側の危機意識をうけて、政変劇を演出したというのが妥当なような気がします。(その朝廷側にこまの一つとして足利義昭がいたとも言えそうですが・・・。)
 ただ、歴史学の流れとしては古くからある怨恨説や信長に取って代わろうとしたと言う野望説を乗り越えられつつあるという状況にあるのかなと思います。
 前回紹介した「黄門さまと犬公方」にしても本書にしても、なんとなしに当たり前と思っていた状況が塗り替えられつつあるのだと実感できる本ではありました。

 一度安土城に行ってみたいなあとはつねづね思っているのですが、なかなか実現しないなあ。
 
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