休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

天王寺界隈を歩く② ~家隆塚~

2016-04-10 18:48:32 | 文学をたどる
 愛染堂から北へ歴史の道の沿って、マンションが立ち並ぶ街の中を、10分ほど歩いたところに、陸奥宗光一族の墓所跡を記した説明板がある。説明板の横には大きな石碑2柱とその間にお地蔵さんが建っている。

 

 右が、陸奥宗光が建てた「夕日岡阡表」で父、伊達宗広の業績を綴っている。また、左が原敬が建てた陸奥宗光の顕彰碑である。その間にあるのは、「清地蔵」と呼ばれるお地蔵さんで、陸奥宗光の娘、清子が21歳で早逝したのを悼み、その墓前に建てられたものだそうだ。
 解説板を読んでみると、陸奥宗光の父、伊達宗広は、藤原家隆にちなんでこの地に草庵を営み、「夕日岡」と名付けて、一族の墓所とし、実際に埋葬されたらしい。後に伊達、陸奥一族の墓は、鎌倉に移転している。また、同じ場所には幕末の薩摩藩士である小松帯刀の墓もあったようだ。
 こんな史跡があるのは、全然知らなかったなあ。大河ドラマの終わりに放送される関連する史跡でも紹介されたことないんじゃないの。意外と知られていない史跡ではあります。

 さて、家隆塚は、この清地蔵から、西へ少し行った上町台地の端の方にある。
 家隆塚は、鎌倉時代の歌人、藤原家隆がこの地に「夕陽庵(せきようあん)」という庵を建てて、隠棲したことに由来している。夕陽丘の地名もこのことに由来している。

 この地で、「ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入り日をおがみつるかも」という歌を残している。

 

 この歌碑が家隆塚に建てられている。この家隆塚、藤原家隆の墓所と伝えられ、いつの頃からか五輪塔が建てられている。また、五輪塔の横には、家隆塚の由来を綴った石碑がある。(江戸時代、享保年間に建てられたようだ。)
 
 

 藤原家隆について少し記すと、1158年生まれで1237年没ということで、79歳で亡くなっている。この時代で言うとかなり長命であったようだ。1158年の生まれということは、ちょうど武者の世が始まる時に生まれている。藤原定家とともに新古今和歌集の選者になっている。また、百人一首では「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」という歌が選ばれている。(ちなみにこの歌の、ならの小川は、上賀茂神社の境内を流れる御手洗川を言うのだそうだ。)79歳で出家後、この地に移り住み、西方浄土を夢見て亡くなったのだそうだ。

 

 ちょうど、季節柄、塚のそばの桜の花がきれいに咲いていた。残念ながら、ここからは樹が生い茂っていて夕陽を眺めることはできなかった。何とかできないのかなあ。せっかく夕陽の美しさを歌っている場所なのに・・・。

 そうそう、塚からは、愛染堂の多宝塔の裏側を見ることができた。

 

 でも、この辺りは、大阪の真ん中にあるけども、緑もあり、静かな場所である。大阪でもこういうしっとりとした場所はまだ残っているのである。
 
 

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