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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

平成27年度 大坂城跡発掘調査 現地公開

2016-04-07 16:52:35 | 現地説明会
 2月6日(土)
 大阪市では、大坂城豊臣石垣公開プロジェクトとして、平成25年度から大坂城跡本丸に位置する金蔵の東側にて発掘調査を行っており、1年間に数回発掘の成果の公開を行っている。このブログでも、以前に「大坂城発掘調査現地説明会」というタイトルで投稿しており、この関係では2回目になる。

 今回の発掘調査の成果は2つある。一つは、豊臣期の大坂城詰の丸を再発掘したこと。もう一つは、徳川期の砂利敷通路を確認したことである。

 【豊臣期大坂城詰の丸発掘地点】

 

 今回、発掘された大坂城の石垣は、昭和59年に水道工事の際に見つかった石垣を再発掘したものだとのこと。発掘調査では石垣の上部のみを検出したのみだが、以前の発掘調査で、この下6mほど地下まで石垣が見つかっている。

 

 豊臣期の石垣の裏側には、裏込め石と一緒に五輪塔や石塔の台座、石臼などが見つかっている。この時期の他の城郭と同様にいろんなところから石材を持ってきている。大坂城は、天正11年(1583)9月から始まって、翌年の8月には秀吉が本丸に移ってきているので、11ヶ月である程度仕上げないといけないのだから仕方ないですね。

 

 石垣の東面である。今回見つかった石垣は東南隅の逆L字型の面であり、先の2枚の写真が南側である。東側の石垣では、どこかの寺院か宮殿から取ってきた後であろう礎石が持って来られている。大坂城の近くには難波宮があるので、そこから持ってきたのかもしれない。

 今回の発掘調査で初めて検出されたものとして、詰の丸の隅櫓があったと推定される範囲の地表面等が確認されている。

 

 詰の丸は、元の地面の上の盛り土をして整地されており、写真ではわかりにくいが、大坂の陣で焼け落ちた際の瓦などが点在している。豊臣期にはこの上に隅櫓が建っていたであろう状況を裏付けている。

 

 詰の丸というのは聞きなれない名称だが、本丸とも呼ばれ、名前の如く一番重要な場所を示している。豊臣期には、今回検出された石垣の近くには、奥御殿が建っており、秀吉とおねのプライベート空間があったと考えられている。

 【徳川期 砂利敷き通路】

 

 平成26年度の発掘の際に検出された砂利敷き通路の延長線にあるものである。馬印櫓から天守閣まで続いていると考えられる。また、その横には道路ができる以前の瓦等を捨てたごみ穴も見つかっている。

 

 最後に、調査員の方のお聞きすると今回、検出した石垣等は、一度、火に焼かれているのでもろくなっているので再度埋め戻すとのこと。
 次のお目にかかるのは、見学施設が出来てからということになるのだろう。募金が平成29年3月までになっているので、そのころまでにはできるのかな。

 この時期、ちょうど梅が咲き始め出会ったので梅の花を見るために城内をぐるぐると歩いてみた。山里丸と呼ばれる個所の片隅に「淀殿、秀頼自陣の地」という石碑がひっそりと置かれていた。

 



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