休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

三宅古墳群を歩く

2017-02-12 23:35:35 | 史跡を歩く
 三宅町の瓢箪山古墳の発掘調査の現地説明会があると聞いて、初めて王寺駅から近鉄田原本町線に乗った。なんと単線なうえにワンマンカー、ちょっとローカル線の旅気分で少し間電車旅(というほどではないが)を楽しみ、瓢箪山古墳の最寄り駅但馬駅に着いた。おお、なんと無人駅ではないか。無人駅なんて、乗車客の善意を信じてないとできないよなあと思いながら、PiTaPaを使って下車。

 

 駅の周辺は、何もないというか駅のホームから見える光景は、稲穂が刈り取られた後の田んぼのみ。

 

 都市化した街になれた私の目には非常に新鮮な風景で、これぞ日本の原風景というような気もする。

 瓢箪山古墳の現地説明会まで時間があるので、ついでにいくつかの古墳を見て回ろうと思い立ち、まずは駅に一番近い天王塚古墳を探す。途中但馬杵築神社がある。

 

 祭神は、須佐之男命と伝えられ、境内には、元応元年(1319年)に造立された石造の十三重塔が建っている。

 

 但馬杵築神社を過ぎて、東へ向かう。途中、飛鳥川を越えていくと民家の裏の田んぼの中にポツンと土饅頭のようなものがある。これが天王塚古墳である。古墳までは、田んぼのあぜ道のような道を伝って近くまで行くことが出来る。

 

 三宅町のパンフレットには、直径16m、高さ4mの円墳と記されている。墳丘はかなり削られているようで、半壊状態。

 

 見る角度によっては、前方後円墳か前方後方墳のように見えてしまうなあ。

 天王塚古墳を見た後、再び、但馬駅へ戻り、今度は、北へ瓢箪山古墳の方角へ向かうことにした。
 なお、瓢箪山古墳については、すでにこのブログの中で紹介しており、(「瓢箪山古墳 現地説明会」参照)前景の写真だけを載せて、割愛して次の古墳を紹介していくことにしよう。



 瓢箪山古墳から、東へ向かうと寺川のほとりに、小さな塚がある。

 

 アンノ山古墳と呼ばれる古墳で、墳丘自体がかなり畑などに開墾されて、かなり削平をされており、墳丘の高さも1.7mから2.0mほどしか残っていない。パンフレットによると全長40m、後円部径20m、前方部幅22.5mの前方後円墳であったようだ。確かにGoogleの航空写真で見ると田んぼの畦の形から、前方後円墳の盾形の周濠の形が見える。(ちなみにアンノ山古墳のすぐ西南にも同様の見方をすると前方後円墳の跡らしいものが見える。)

 

 アンノ山古墳から北へ飛鳥川に沿って歩くと、幹線道路沿いに高山古墳がある。この古墳も、他の古墳と同様に案内板がないと古墳かどうかはわからない状態である。

 

 全長51mの前方後円墳であり、古墳の北側の道路工事の際に円筒埴輪が出土しており、その埴輪からは5世紀末の築造であると推定されている。たぶん東西を向いて築造されており、東側が前方部のような感じである。
 
 

 墳丘自体、かなり削平を受けている状態である。
 その高山古墳から、さらに北へ田んぼの中の道を歩いていくと、田んぼの中にポツンと方形の古墳が見える。茄子塚古墳と呼ばれる古墳である。一見、方墳のように見えるが、後世の改変を受けていて、実際は円墳であると考えられている。

 

 この古墳からは、須恵器が出土しており、築造は、5世紀後半から6世紀初頭と考えられている。確かに畦や道の形からは円墳のように見えるなあ。

 

 三宅町にある三宅古墳群めぐりの最後、寺ノ前古墳である。茄子塚古墳からは少し西に行ったところにある安養院というお寺の西にある。(ちなみにこのお寺自体古墳の上に建っている。

 

 この古墳は、全長34mの前方後円墳であるが、前方部がかなり削平を受けている。ただし、畦に周濠の形が残っているのがわかるので、三宅町にある古墳の中では、まだ見ごたえのある古墳である。

 

 過去、円筒埴輪と家型埴輪が見つかっており、築造されたのは6世紀初頭と考えられている。また、この古墳は、過去何度か盗掘にあっており、その際の記録から埋葬施設が横穴式石室ではないかと言われている。正式な発掘調査がなされていないので、詳細はわからない。

 三宅古墳群については、現在、前方後円墳を中心に17基現存していると言われている。また、「瓢箪山古墳」や「茄子塚古墳」といった名称がついていない古墳も多くあり、田んぼの中にポツンとそれらしき塚があったりする。↓こんな感じ。

 

 三宅古墳群の築造年代は、5世紀末から6世紀はじめと考えられている。
 最後に古墳の埋葬された人物は不明であるが、三宅という地名は、倭屯倉の推定地とされることから、屯倉の運営にかかわった豪族(伴造レベル)の豪族の墓所と考えられそうである。

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