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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

陰陽師 酔月の巻

2015-02-28 02:09:10 | 読書日記
「陰陽師 ~酔月の巻~」
 夢枕獏 著 文春文庫

 陰陽師シリーズも12作目。第1作目が出版されたのが、1988年、もう、25年以上も続いているシリーズである。ストーリー展開が、だんだん水戸黄門見たく定番になりつつある。安倍晴明と源博雅の二人が、晴明の邸で酒を酌み交わしているところに、怪異な事件が持ち込まれる。そして、ホームズとワトソンのコンビのごとく、不思議な、怪異な事件の解決を行うというのがだいたいのパターンだ。マンネリ化しつつあるも、ここまでくると偉大なるマンネリズムになっている。ただ、ここ数巻は、もう一人蘆屋道満という晴明のライバル役の法師陰陽師が絡むことも多い。
 本の中身でも、会話が多く、文の改行が多いので、非常に読みやすい。最近、ギッシリと字が詰まっている文章を読むのがしんどいのでちょうどいいちゃあいい。気分転換になる。

 今回のラインナップは、全部で9編。
 「銅酒を飲む女」「桜闇、女の首。」「首大臣」「道満、酒を馳走されて死人と添い寝をする語」「めなし」「新山月記」「牛怪」「望月の五位」「夜叉婆あ」である。
 基本は、いるいろな妄執が人間をあやしのものに変えていく話が多い。特に女性があやしのものになっていくのだが、通ってくる男が途絶え、そのことを恨む気持ち、いや、その男を愛する気持ちがすぎると人はあやしのものや鬼に姿を変えてしまうのである。陰陽師の各編を読んでいると、季節の移ろい、人の心の移ろいを、常に人の世のはかなさ、哀しさといったものを感じてしまう。生きていることが哀しい。そして自分の存在自体が、なんとなく足場がしっかりしない、不安定なものの上に立脚して生活をしているような気がしてしまう。
 人は、過ぎるとあやしのものになってしまうことがある。われわれの周りでも、姿が変わらないまでも、あやしのものになっている人はいくらでもいる。不思議だ。この状態は、狂になってしまうとも言えそうだ。まるで徒然草の冒頭、あやしうことこそものぐるほしけれだなあ。

 9編の小説の中で、「新山月記」という一編がある。題名でお分かりのように、中島敦の「山月記」のモチーフになった説話を、日本に置き換えた作品である。大きく違うのは、虎に変わった詩人は、山月記では最後、自身の作った詩を友人に託した。陰陽師版では、自分の作品だといって託した詩は、白楽天のものであったというオチになっている。これも、狂の人である。

 狂とは何だろう。ちょっと調べてみた。白川静氏の常用字解によると、「玉座に前の置かれた鉞に触れて異常な力を得て「くるう」ことを狂という。」と書かれている。ある意味、共同体の中で特殊な力を発揮するような状態を「狂」というのかもしれない。もともとは、こういう意味だったのだ。徐々に言葉のイメージが変わってきているのだろう。今では、マイナスのイメージのところがある。論語には、こんな一節がある。「中庸の人を見つけることができないとすれば、次に狂狷に人がい。」そして、狂狷とは、いちずに理想に走り、自分の 意思をまげないことであるという。確かに狂が過ぎるとあやしになるのである。少し話はそれてしまった。

 陰陽師シリーズも、まだまだ続いていくのであろう。そして人の世は移ろいゆくのである。季節は移り替わっていく。生きていくことは哀しいもとも多い。でも喜びもまた多いのである。(陰陽師でも花や木の名前が良く出てくる。そういったものがわかれば、自分の前にある花などの名前はわかれば、もっと世の中は楽しいかもしれない。あっ、これが「呪」をかけるということか。)

 
 
 
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