「漱石を読みなおす」
小森 陽一著 ちくま新書
最近、齢のせいか、小さい字が読みにくい。ふと夏目漱石が読みたくなって、昔、買った「吾輩は猫である」を読み始めたのだが、字が小さくて小さくて、朝はいいとして、夜になると何故かいっそう見にくくなってしまい、ついに途中で断念してしまった。そんなこんなで、漱石について何か読みたいという欲求にかなえるべく読み始めたのが本書である。
本書の内容は、以下の通りである。
「猫と金之助」
「子規と漱石」
「ロンドンと漱石」
「文学と科学」
「大学屋から新聞屋へ」
「金力と権力」
「漱石の女と男」
「意識と無意識」
「個人と戦争」
「猫と金之助」から「大学屋と新聞屋」までが、漱石の生涯を通しての考察、「金力と権力」以降が、作品へのアプローチという感じであろうか。
「吾輩は猫である」の猫は、実は漱石自身なのであるという問いかけから始まる。漱石自身、生まれてすぐ里子に出され、すぐに家に戻るも、また養子に出され、兄弟が早逝したために、結局は、夏目家に戻るという人生を送っている。それは、生まれてすぐにほかの猫から引き離され、いつの間にか苦沙弥先生のもとに生活をし始めた無名の猫と猫と一緒であるというのである。なるほどなあ、そんな読み方があるのかと思う。漱石の出生から成人に至るまでの家族関係の複雑なところはつとに知られているところであるが、そうしたことが、小説の中に影を落としている。そして、小説世界を読み解いていくのに、作者がどんな生涯を送っていたのか、あるいは生涯の中でどんな事を考えていたのか、何を思っていたのかと何て事を知ったうえで読むことは、小説を読みこんでいく上で、一つのアプローチになるのであろうなあと実感。それは、作者が意図しているかどうか別問題ではあるが・・・。これがテキストとしてよむということになるんだろうか。
最近の僕は、正岡子規と夏目漱石の一緒に過ごした松山時代に興味がある。近代文学の大きな流れを作った二人が一緒に生活していたなんてどんなものだったのだろう。二つの個性のぶつかり合いって凄く興味深い。(最近、この二人の松山時代を描いた「ノボさん」という小説があるのを知った。)
夏目漱石が、大学教授を辞して朝日新聞に迎えられた時代はちょうど日本の近代史の中の大きな転換点であった。日露戦争の前後というのは、日本社会が資本主義社会となっていく時代であった。金銭の関係が生活の中に入り込んでくるようになったのである。日露戦争が始まった時を現代史の始まりという見解もある。そうした中、新聞ジャーナリズムも大きく転換していく、そうした時代であった。
だから、経済という観点から、「三四郎」や「それから」などの読み解いていくと金力というものがそれぞれの登場人物の行動を規定していく。これまで、あんまりそういう視点で読んだことがなく、はて、いったいこれらの小説の登場人物は何でお金を稼いでいたんだっけなんて思っていたりする。文学に興味を持つ人間というのは、お金に無頓着だったりするからなあ。(また、どこかそれが正しいなんて思っていたりする。)経済小説なんていう観点で読んでみるとこれまた違った視点で読めてしまうなあ。文学史的な読み方をしてしまうと「個人主義的な人生観に立脚しながら、現代人のエゴイズムを浮き彫りにし、エゴイズムを超えるモラルをテーマとしていた。」という書き方になってしまう。
いろいろな視点や時代相なんてもの視野に入れながら読むと小説世界の読み方というのはドンドン広がっていくような気がする。
最後に、戦争の問題。近頃の右傾化している政治状況を鑑みると、漱石が「私の個人主義」という講演の中で訴えたことを改めて読み直してみる必要があるような気がする。確か教科書に載っていて、国語の時間に習った記憶があるのだが、今の子ども達は習うのだろうか。「こころ」だけではないこういった漱石にも触れて欲しいような気がする。
本書で文学の読みの可能性が広がっていくのを実感できた気がする。大学に入ったぐらいの教養課程の学生に読んでほしいなあ。
小森 陽一著 ちくま新書
最近、齢のせいか、小さい字が読みにくい。ふと夏目漱石が読みたくなって、昔、買った「吾輩は猫である」を読み始めたのだが、字が小さくて小さくて、朝はいいとして、夜になると何故かいっそう見にくくなってしまい、ついに途中で断念してしまった。そんなこんなで、漱石について何か読みたいという欲求にかなえるべく読み始めたのが本書である。
本書の内容は、以下の通りである。
「猫と金之助」
「子規と漱石」
「ロンドンと漱石」
「文学と科学」
「大学屋から新聞屋へ」
「金力と権力」
「漱石の女と男」
「意識と無意識」
「個人と戦争」
「猫と金之助」から「大学屋と新聞屋」までが、漱石の生涯を通しての考察、「金力と権力」以降が、作品へのアプローチという感じであろうか。
「吾輩は猫である」の猫は、実は漱石自身なのであるという問いかけから始まる。漱石自身、生まれてすぐ里子に出され、すぐに家に戻るも、また養子に出され、兄弟が早逝したために、結局は、夏目家に戻るという人生を送っている。それは、生まれてすぐにほかの猫から引き離され、いつの間にか苦沙弥先生のもとに生活をし始めた無名の猫と猫と一緒であるというのである。なるほどなあ、そんな読み方があるのかと思う。漱石の出生から成人に至るまでの家族関係の複雑なところはつとに知られているところであるが、そうしたことが、小説の中に影を落としている。そして、小説世界を読み解いていくのに、作者がどんな生涯を送っていたのか、あるいは生涯の中でどんな事を考えていたのか、何を思っていたのかと何て事を知ったうえで読むことは、小説を読みこんでいく上で、一つのアプローチになるのであろうなあと実感。それは、作者が意図しているかどうか別問題ではあるが・・・。これがテキストとしてよむということになるんだろうか。
最近の僕は、正岡子規と夏目漱石の一緒に過ごした松山時代に興味がある。近代文学の大きな流れを作った二人が一緒に生活していたなんてどんなものだったのだろう。二つの個性のぶつかり合いって凄く興味深い。(最近、この二人の松山時代を描いた「ノボさん」という小説があるのを知った。)
夏目漱石が、大学教授を辞して朝日新聞に迎えられた時代はちょうど日本の近代史の中の大きな転換点であった。日露戦争の前後というのは、日本社会が資本主義社会となっていく時代であった。金銭の関係が生活の中に入り込んでくるようになったのである。日露戦争が始まった時を現代史の始まりという見解もある。そうした中、新聞ジャーナリズムも大きく転換していく、そうした時代であった。
だから、経済という観点から、「三四郎」や「それから」などの読み解いていくと金力というものがそれぞれの登場人物の行動を規定していく。これまで、あんまりそういう視点で読んだことがなく、はて、いったいこれらの小説の登場人物は何でお金を稼いでいたんだっけなんて思っていたりする。文学に興味を持つ人間というのは、お金に無頓着だったりするからなあ。(また、どこかそれが正しいなんて思っていたりする。)経済小説なんていう観点で読んでみるとこれまた違った視点で読めてしまうなあ。文学史的な読み方をしてしまうと「個人主義的な人生観に立脚しながら、現代人のエゴイズムを浮き彫りにし、エゴイズムを超えるモラルをテーマとしていた。」という書き方になってしまう。
いろいろな視点や時代相なんてもの視野に入れながら読むと小説世界の読み方というのはドンドン広がっていくような気がする。
最後に、戦争の問題。近頃の右傾化している政治状況を鑑みると、漱石が「私の個人主義」という講演の中で訴えたことを改めて読み直してみる必要があるような気がする。確か教科書に載っていて、国語の時間に習った記憶があるのだが、今の子ども達は習うのだろうか。「こころ」だけではないこういった漱石にも触れて欲しいような気がする。
本書で文学の読みの可能性が広がっていくのを実感できた気がする。大学に入ったぐらいの教養課程の学生に読んでほしいなあ。
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