「虚人たち」
筒井 康隆著 中公文庫
最近、筒井康隆づいている。「心狸学・社怪学」から始まり「アルファルファ作戦」や「くたばれPTA」など立て続けだ。きっかけは、団地について、書いた小説を急に読みたくなり、それが「心狸学・社怪学」に収録されている「優越感」という一編。そこから、読み続いているという訳。そして、その流れの中で今回の「虚人たち」である。
思えば、中高生の時は、北杜夫に続いて、マイブームが来たのが筒井康隆だった。そこから、星新一や豊田有恒などのSF小説にはまっていくことになるのだが、その始まりは筒井康隆だった。たぶん、初めて読んだのは角川文庫から出ている「にぎやかな未来」。そのあと「筒井順慶」や「日本列島七曲り」などを読んではまっていくんだなあ。高校の1年生のころには、ほぼ文庫に出ている本は読みつくしたと思う。そんな時に手にしたのが、本書「虚人たち」。これまでのドタバタSFから一転して実験長編小説。高校生の私には手に負えず、積読の仲間入り。そのまま、本棚の奥にしまい込まれて、4半世紀越え、やっと日の目を見ることとなった。
本書は、登場人物が、自ら小説の登場人物であることを自覚しており、また、妻と娘が同時に誘拐され、その救出を行おうとするのだが、この設定は主人公を動かすための単なる設定のような気がする。小説の中では、主人公は、この設定に対して特に何事もなしていない。(最後は、妻も娘の強姦をされた上に殺されてしまうのだが、主人公は時間や空間を飛び越えて観察しているだけである。)
この小説は、時間軸が定時法で描かれており、本来は小説の中で省略されているような部分まで主人公の目を通して描かれている。主人公が意識をなくした時は、数ページにわたって空白のページが続いている。(はじめ落丁かと思ったよ。)ただ、主人公が会社を首になったあたりから、主人公は時間や空間からも逸脱した存在になる。これまでの小説の時間軸、空間というセオリーを破壊していくのである。
そして、小説世界が全くの虚構の世界となるのだが、読んでいくうちに、我々の住んでいる世界も虚構なのではないか、いわば、現代という設定の中に突然意識を持って掘り出されているのではないのか?自分の存在している基盤というのは案外脆弱なのではないかなどど不安な気持ちを感じてしまう。死というのはもしかしたら、本書のようにテレビの電源が切れたようなものなのかもしれない。突然ぷつんと無になってしまうといった。
そういえば、本書が、高校時代の私にとって、非常に読みにくかったのは、センテンスが長く、改行等が全くなかったからではなかったか?このセンテンスが長いのも、意識の流れをそのまま表しているのだろうな。
本書を最後まで読んで気がついたのだが、おそらくこの本の出版される10数年前に書かれた「脱走と追跡のサンバ」と繋がっていくのではないだろうか。主人公もそのことをにおわせている部分もある。そういえば高校時代、現代社会の宿題で、情報とは何かみたいなレポートを書いたな。全く相手にされなかったけど。このころからマスコミ社会、情報化社会といった概念に興味を持ち始めるようになった。
「脱走と追跡のサンバ」については、あまり人気がなかったのだろう。僕が興味を持った時には、絶版になりかかっていて、何軒も本屋さんを探し回った記憶がある。(実際に絶版になってしまって、のちに角川文庫から復刊されている。)ただ、一部では、初期、中期の筒井康隆の最高傑作と言われていた。文学的な評価と本の売れ行きとは一致しないという例の一つでもある。
本書「虚人たち」も泉鏡花文学賞を受賞するも、あんまり売れ行きは良くなかったようだ。当時の僕同様に戸惑った人が多かったのだろう。
ここから、筒井康隆は、ドタバタSFから卒業して、実験小説を主に書き始めるようになる。僕も、虚人たちの文庫本の出版以降、お気に入りが筒井康隆からかんべむさしや横田順彌、梶尾真治,山田正紀などの第2世代のSF作家にシフトしはじめるようになった。
筒井 康隆著 中公文庫
最近、筒井康隆づいている。「心狸学・社怪学」から始まり「アルファルファ作戦」や「くたばれPTA」など立て続けだ。きっかけは、団地について、書いた小説を急に読みたくなり、それが「心狸学・社怪学」に収録されている「優越感」という一編。そこから、読み続いているという訳。そして、その流れの中で今回の「虚人たち」である。
思えば、中高生の時は、北杜夫に続いて、マイブームが来たのが筒井康隆だった。そこから、星新一や豊田有恒などのSF小説にはまっていくことになるのだが、その始まりは筒井康隆だった。たぶん、初めて読んだのは角川文庫から出ている「にぎやかな未来」。そのあと「筒井順慶」や「日本列島七曲り」などを読んではまっていくんだなあ。高校の1年生のころには、ほぼ文庫に出ている本は読みつくしたと思う。そんな時に手にしたのが、本書「虚人たち」。これまでのドタバタSFから一転して実験長編小説。高校生の私には手に負えず、積読の仲間入り。そのまま、本棚の奥にしまい込まれて、4半世紀越え、やっと日の目を見ることとなった。
本書は、登場人物が、自ら小説の登場人物であることを自覚しており、また、妻と娘が同時に誘拐され、その救出を行おうとするのだが、この設定は主人公を動かすための単なる設定のような気がする。小説の中では、主人公は、この設定に対して特に何事もなしていない。(最後は、妻も娘の強姦をされた上に殺されてしまうのだが、主人公は時間や空間を飛び越えて観察しているだけである。)
この小説は、時間軸が定時法で描かれており、本来は小説の中で省略されているような部分まで主人公の目を通して描かれている。主人公が意識をなくした時は、数ページにわたって空白のページが続いている。(はじめ落丁かと思ったよ。)ただ、主人公が会社を首になったあたりから、主人公は時間や空間からも逸脱した存在になる。これまでの小説の時間軸、空間というセオリーを破壊していくのである。
そして、小説世界が全くの虚構の世界となるのだが、読んでいくうちに、我々の住んでいる世界も虚構なのではないか、いわば、現代という設定の中に突然意識を持って掘り出されているのではないのか?自分の存在している基盤というのは案外脆弱なのではないかなどど不安な気持ちを感じてしまう。死というのはもしかしたら、本書のようにテレビの電源が切れたようなものなのかもしれない。突然ぷつんと無になってしまうといった。
そういえば、本書が、高校時代の私にとって、非常に読みにくかったのは、センテンスが長く、改行等が全くなかったからではなかったか?このセンテンスが長いのも、意識の流れをそのまま表しているのだろうな。
本書を最後まで読んで気がついたのだが、おそらくこの本の出版される10数年前に書かれた「脱走と追跡のサンバ」と繋がっていくのではないだろうか。主人公もそのことをにおわせている部分もある。そういえば高校時代、現代社会の宿題で、情報とは何かみたいなレポートを書いたな。全く相手にされなかったけど。このころからマスコミ社会、情報化社会といった概念に興味を持ち始めるようになった。
「脱走と追跡のサンバ」については、あまり人気がなかったのだろう。僕が興味を持った時には、絶版になりかかっていて、何軒も本屋さんを探し回った記憶がある。(実際に絶版になってしまって、のちに角川文庫から復刊されている。)ただ、一部では、初期、中期の筒井康隆の最高傑作と言われていた。文学的な評価と本の売れ行きとは一致しないという例の一つでもある。
本書「虚人たち」も泉鏡花文学賞を受賞するも、あんまり売れ行きは良くなかったようだ。当時の僕同様に戸惑った人が多かったのだろう。
ここから、筒井康隆は、ドタバタSFから卒業して、実験小説を主に書き始めるようになる。僕も、虚人たちの文庫本の出版以降、お気に入りが筒井康隆からかんべむさしや横田順彌、梶尾真治,山田正紀などの第2世代のSF作家にシフトしはじめるようになった。
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