京都市内の北辺を守るように東西に長く横たわっている独立した丘が船岡山である。標高110mほどの高さであり、山のほとんどが船岡山公園として整備されている。
船岡山の都市伝説としては、有名なものとしては、平安京を四神相応の地として、北側を守る玄武にあたるのが船岡山だとする。また、平安京を船岡山を中心として、朱雀大路を南北に通じたとするものであろう。昔の朱雀通の延長である千本通が、現在が船岡山の西を通っているので、一見そんな気がしなかったのだが、地図をよく見れば、平安宮の大極殿跡があった千本丸太町辺りからまっすぐ南へ線を引くと船岡山にあたるのは確か。しかしながら、そのことを裏付ける史料自体はないようだ。
ただ、船岡山を登ると古い信仰から、現代までの歴史が見えるのも確かである。船岡山自体、全山チャートと言う地層が見られ、もともとは海の底だったものが隆起してできた山だと考えられている。そして、山頂にはそのチャートを使って、古代の祭祀遺跡である磐座が残っていると言われている。(確証はないようだが・・・。)
そして、平安時代、枕草子には、「岡は船岡山」と書かれているように景勝の地として知られていた。確かにここからは京都市内を一望できるし、お盆の大文字送り火では、左大文字がこの山からはよく見える。今から、40年程前に船岡山に登って左大文字を見たことがある。その当時も大勢の人が登っていたが、だいたいが地域の人か学生で、観光客はまばらだったような気がする。
その一方で、船岡山の周辺は、蓮台野と呼ばれ、風葬の地であった。鳥戸野、化野、蓮台野で京の三大風葬地のと呼ばれていた。そういえば、船岡山周辺には、後朱雀天皇や近衛天皇などの火葬塚がいくつも残っている。
そして、処刑の地でもあり、よく知られているのが、保元の乱で敗れた崇徳天皇方の武将、源為義が、我が子源義朝により、他の子ともどもこの地で処刑をされたことである。他の子どもとは、頼仲、為成、為宗、九郎といった義朝の弟たちである。義朝も自らの武功と引き換えに、為義たちの命を救おうとしたがそれはかなわなかった。
処刑された子どもたちの中には、まだ歳場も行かないものもいたという。何とも哀れな話である。
船岡山に登ると、ところどころに石塔や石仏が置かれている。
船岡山の周辺がそういった歴史を持っていたことを表しているのであろう。
それから、山に登って気づいたのだが、船岡山には中世の山城の痕跡がいくつか残っている。堀切などが、これまたそのまま残っている。
船岡山には、応仁の乱の時、ここに大内氏の陣地が置かれたと言われているので、その時に造られたものなのかもしれない。
ただ、これだけきれいに堀や土塁、曲輪などの遺構がきれいに残っているというのも、京都市内では珍しいのではないだろうか?
明治時代になって、船岡山の東側には建勳神社という織田信長を祭神とした神社が造られた。
近代以降の遺跡としては、ラジオ塔や国旗掲揚台が残っていたり、野外音楽堂が造られたりと今に至るまでの京都の歴史に関わるものがいくつもある。
あんまりよいことにない出来事もあり、心霊スポットみたいな話も耳にしたりしますが、登ってみると京都市内を一望でき、途中山城の跡を探したり、建勳神社に参拝などして、いろんな楽しみ方ができるスポットではないでしょうか。
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