近頃、正岡子規に興味を持ち始め、その生涯について調べたりしている。去年ぐらいから近代文学の流れというのに触れ始めていていろいろな評論や小説などを読んでいるうちに、正岡子規に行き当たったというところか。
正岡子規というと、この横顔の肖像写真が著名だが、僕自身、無学のため長らく40~50代のおっちゃんの写真ぐらいにしか思っていなかったし、正岡子規と言っても「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句を詠んだ人ぐらいの知識しかなかった。とにかく、これまでほとんど興味を持っていなかった訳だが、34歳で亡くなったということを知り、その短い生涯と成し遂げた仕事の多さのギャップに驚き、しかも晩年(というべきか)、死に至る7年間は結核などの病を患い、ほとんど寝たきりの生活を送っていたのだという事を知るに至っては、いったいこの人はどんな人物であったのだろうと非常に興味を持ち始めたというところである。
今回、松山市立子規記念博物館にどうしても行きたいということで、今治の方に行く機会を利用して、松山の方へ足を延ばすことにした。
子規記念博物館については、道後公園(湯築城跡)に隣接して建てられている。道後温泉郷の中にある。
地下に車を入れ、2階へ上がる。
入るとまず「道後松山の歴史」の展示コーナーがある。愛媛という名前は、古く。古事記に出てくるそうだ。そして、額田王の「熟田津にきたつに船ふな乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」という歌が出てくる。
その後中世、近世と来て、いよいよ子規の出番となる。展示については「子規とその時代」「子規のめざしたもの」というテーマで行われている。子規の生涯が、パネルや資料によってわかるようになっている。
3階に上がると、子規と夏目漱石が一緒に下宿していたという愚陀佛庵の1階部分を復元したものが展示されている。
1階が子規、2階に漱石が住んでいたそうです。漱石の松山に中学校の英語教師として赴任した経験をもとに「坊ちゃん」が創作されたのは有名な話ですよね。こうした2人の天才が才気をぶつけ合ったところ想像するとわくわくするものを感じる。
庭には柿の木が実をつけている。柿が俳句の季語となったのは、正岡子規が柿の句を詠んだことに始まるそうだ。
ちなみに松山市内にある本当の愚陀佛庵は、平成22年の大雨による土砂崩れで倒壊して、見学ができないそうである。
印象に残ったのは、子規は、死の直前まで「病床六尺」を雑誌「日本」に寄稿を続けているのだが、病状が悪化してきて、雑誌「日本」からもういいよと言われたときに、とにかく続けさせてくれという手紙を送っています。物書きの自負というものを感じさせるし、書くという行為が自分が生きているという証なんだと思う。
そして、絶筆三句。
「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」
「をとゝひのへちまの水も取らざりき」
この状況を再現したテレビドラマを見ることができる。最後の最後まで書くという行為を続けたかったのだと思う。胸に湧きあがるものを感じる。
最後に、子規は野球の普及に尽力したとして野球博物館の殿堂入りをしている。ちなみに野球の名付け親が子規というのはどうやら俗説らしい。野球(のぼる)というペンネ―ムを使ってはいたそうだ。
子規記念博物館を出ると、外に大きな句碑が建っていた。
子規の生涯を改めて振り返ってみると、はじめに貼り付けた子規の横顔はすぐそこにある自分の死を見つめていたのかもしれないという気がした。
参考までに子規記念博物館のURLを貼っておきます。
子規記念博物館HP
正岡子規というと、この横顔の肖像写真が著名だが、僕自身、無学のため長らく40~50代のおっちゃんの写真ぐらいにしか思っていなかったし、正岡子規と言っても「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句を詠んだ人ぐらいの知識しかなかった。とにかく、これまでほとんど興味を持っていなかった訳だが、34歳で亡くなったということを知り、その短い生涯と成し遂げた仕事の多さのギャップに驚き、しかも晩年(というべきか)、死に至る7年間は結核などの病を患い、ほとんど寝たきりの生活を送っていたのだという事を知るに至っては、いったいこの人はどんな人物であったのだろうと非常に興味を持ち始めたというところである。
今回、松山市立子規記念博物館にどうしても行きたいということで、今治の方に行く機会を利用して、松山の方へ足を延ばすことにした。
子規記念博物館については、道後公園(湯築城跡)に隣接して建てられている。道後温泉郷の中にある。
地下に車を入れ、2階へ上がる。
入るとまず「道後松山の歴史」の展示コーナーがある。愛媛という名前は、古く。古事記に出てくるそうだ。そして、額田王の「熟田津にきたつに船ふな乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」という歌が出てくる。
その後中世、近世と来て、いよいよ子規の出番となる。展示については「子規とその時代」「子規のめざしたもの」というテーマで行われている。子規の生涯が、パネルや資料によってわかるようになっている。
3階に上がると、子規と夏目漱石が一緒に下宿していたという愚陀佛庵の1階部分を復元したものが展示されている。
1階が子規、2階に漱石が住んでいたそうです。漱石の松山に中学校の英語教師として赴任した経験をもとに「坊ちゃん」が創作されたのは有名な話ですよね。こうした2人の天才が才気をぶつけ合ったところ想像するとわくわくするものを感じる。
庭には柿の木が実をつけている。柿が俳句の季語となったのは、正岡子規が柿の句を詠んだことに始まるそうだ。
ちなみに松山市内にある本当の愚陀佛庵は、平成22年の大雨による土砂崩れで倒壊して、見学ができないそうである。
印象に残ったのは、子規は、死の直前まで「病床六尺」を雑誌「日本」に寄稿を続けているのだが、病状が悪化してきて、雑誌「日本」からもういいよと言われたときに、とにかく続けさせてくれという手紙を送っています。物書きの自負というものを感じさせるし、書くという行為が自分が生きているという証なんだと思う。
そして、絶筆三句。
「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」
「をとゝひのへちまの水も取らざりき」
この状況を再現したテレビドラマを見ることができる。最後の最後まで書くという行為を続けたかったのだと思う。胸に湧きあがるものを感じる。
最後に、子規は野球の普及に尽力したとして野球博物館の殿堂入りをしている。ちなみに野球の名付け親が子規というのはどうやら俗説らしい。野球(のぼる)というペンネ―ムを使ってはいたそうだ。
子規記念博物館を出ると、外に大きな句碑が建っていた。
子規の生涯を改めて振り返ってみると、はじめに貼り付けた子規の横顔はすぐそこにある自分の死を見つめていたのかもしれないという気がした。
参考までに子規記念博物館のURLを貼っておきます。
子規記念博物館HP
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