先日、雨で同窓生による花見が中止になったこともあり、京都文化博物館にて開催されていた「京を描く―洛中洛外図の時代―」を見に行った。洛中洛外図は、京都の洛中と景観や風俗を描いたものであり、戦国時代から江戸時代にかけて制作された屏風絵である。今回は、重要文化財に指定されている歴博甲本とよばれるものや上杉本と呼ばれるものなどの著名なものを中心に多くの洛中洛外図屏風が一堂に会している。そして、この展示自体は、5つの構成から成り立っている。
第1章 中世の京都像
第2章 洛中洛外図屏風の出現
第3章 変貌する京と洛中洛外図
第4章 京の平和と人々
第5章 京都の真景
終章 近代京都と名所
第1章では、洛中洛外図ができる前史を扱っている。日本の絵画の流れで言うと移り変わる四季の変化を描きわけ、その特色を描く四季絵と歌枕と言われる和歌の名所の情景を取り入れた名所絵が画題の双璧であったそうだ。洛中洛外図においても、そういった流れの中にあることがわかるようになっている。
洛中洛外図の出現以前に、画題として、京都というか都市を風物を描くという視点はなかったと言われる。まあ、政治、文化の中心であった京都の貴族たちにとって、自分たちの住んでいるところをわざわざ画題にして眺めようなんて視点は、確かにないと思う。そうなるには、自分たちの住んでいるところを相対化して眺めようという視点がないと生まれないと思う。そういった意味では、戦国時代になって、洛外洛中図が出現するというのは、一定理解のできる気がする。応仁の乱ののち大名領国制というわけで地方の勢力が高まってきた、当然、京都の地位も低下してくることになるのは想像に難くない、その一方で各地に小京都が現れるように、京都の文化にあこがれる大名たちも出てくる。応仁の乱後、各地にちらばった流浪貴族たちもこういった憧れに拍車をかけたかもしれない。だからこそ、建物などとともに京の人々の風俗も熱心に書きこまれたのかもしれない。
第2章では、上杉本の洛中洛外図屏風の複製をガラス越しではなく、目の当たりに見ることができる。実際に洛外洛中図屏風は、部屋の両側に立てることにより、部屋を京都に「見立て」て、眺めるたのだろう。その中に描かれている名所や風俗に心を躍らせていたに違いないと思う。
この上杉本は、天正2年(1578)織田信長が上杉謙信に送ったものと言われている。この辺りの考証については、今谷明氏や黒田日出男氏の研究が著名である。
洛中洛外図屏風に描かれている場所は、決まっているようで、だいたい、油小路を中心として、右隻には東山と一条以南の下京を、左隻には、上京と嵐山、金閣寺などの西郊を描いている。視点の中心は、相国寺の塔などだそうだ。眺めてみると、自分の知っているところが、出てきていて、結構嬉しかったりする。また、右隻の左から右へ春から夏にかけての年中行事や風物が、左隻の左から右へは、秋から冬の風物などが書きこまれている。よく見てみると、祇園会の山鉾なども書かれている。すでにこのころから山鉾巡行が行われていたのだろう。
屏風の中に、金色の雲が、それぞれの画をつないでいる。これはどういう意味って一緒に行っていた奥さんに聞かれたので、これで空間とかを省略しているとか違うのかなと答えておいたのだが、気になって調べてみると、武田恒夫氏の見解に、もともと京都の名所各地の扇面があり、洛外洛中図は、その絵を屏風につなぎとめたもので、その間を埋めたのが雲形の手法であるとのこと。当たらずも遠からずってとこかな。
この時期に書かれた洛中洛外図屏風は、初期洛外洛中図と呼ばれ、現在、5点が残っている。
第3章になると、近世に入る。
近世以降の洛中洛外図については、後期洛中洛外図と呼ばれる。現存しているのは、ほとんどこの時代のものである。後期洛中洛外図には、二条城と方広寺の大仏殿が書かれるようになり、政治的な意図も見え隠れするようになる。二条城のところには、奉行所なども書かれ、徳川幕府の秩序が見えるのに対して、方広寺には、享楽的な風景が見える。また、二条城への天皇の行幸(?)も見ることができる。徳川幕府の権威づけの意図が見えるような気がする。
そして、描かれる範囲も賀茂や宇治も入るようになった。また中心部には、誓願寺というお寺も大きく書かれるようになった。誓願寺については、新京極を歩いていると見つけることのできる小さなお寺であるが、明治まではなかなか大きなお寺であったようだ。芸能とも大きく関係があり、落語もここが発祥の地であると言われている。展示されている「誓願寺門前図屏風」には、落語をしているような人物も見ることができた。
第4章以降になると、型が決まってしまい、あまり面白くない。もうおなかいっぱいの状態でもあったので、さっと見てしまった。
展示自体は、なかなか面白かったし、見ごたえはあったと思う。
京都文化博物館の常設展もいつのまにか変わってしまってました。
近代の京都の教育のところでは、同志社や京大については、説明があったのですが、以前あった立命や龍谷など他の大学がざっくりを抹殺されてた。京都の大学の歴史を語る中では、仏教系の学問所からつながる大学が多くあるのが京都の特色のような気がするのですが・・・。
京都文化博物館別館は、明治39年に竣工され、昭和40年まで日本銀行の京都支店として使用されたものであり、現在は、国の重要文化財に指定されている。このあたりは、煉瓦造りの建物がいくつか残っており、そういった建物を探しながら歩くのも楽しいところである。
我々も、せっかくなので近くにある老舗の喫茶店、イノダコーヒ(コーヒーではない。)によって帰った。
第1章 中世の京都像
第2章 洛中洛外図屏風の出現
第3章 変貌する京と洛中洛外図
第4章 京の平和と人々
第5章 京都の真景
終章 近代京都と名所
第1章では、洛中洛外図ができる前史を扱っている。日本の絵画の流れで言うと移り変わる四季の変化を描きわけ、その特色を描く四季絵と歌枕と言われる和歌の名所の情景を取り入れた名所絵が画題の双璧であったそうだ。洛中洛外図においても、そういった流れの中にあることがわかるようになっている。
洛中洛外図の出現以前に、画題として、京都というか都市を風物を描くという視点はなかったと言われる。まあ、政治、文化の中心であった京都の貴族たちにとって、自分たちの住んでいるところをわざわざ画題にして眺めようなんて視点は、確かにないと思う。そうなるには、自分たちの住んでいるところを相対化して眺めようという視点がないと生まれないと思う。そういった意味では、戦国時代になって、洛外洛中図が出現するというのは、一定理解のできる気がする。応仁の乱ののち大名領国制というわけで地方の勢力が高まってきた、当然、京都の地位も低下してくることになるのは想像に難くない、その一方で各地に小京都が現れるように、京都の文化にあこがれる大名たちも出てくる。応仁の乱後、各地にちらばった流浪貴族たちもこういった憧れに拍車をかけたかもしれない。だからこそ、建物などとともに京の人々の風俗も熱心に書きこまれたのかもしれない。
第2章では、上杉本の洛中洛外図屏風の複製をガラス越しではなく、目の当たりに見ることができる。実際に洛外洛中図屏風は、部屋の両側に立てることにより、部屋を京都に「見立て」て、眺めるたのだろう。その中に描かれている名所や風俗に心を躍らせていたに違いないと思う。
この上杉本は、天正2年(1578)織田信長が上杉謙信に送ったものと言われている。この辺りの考証については、今谷明氏や黒田日出男氏の研究が著名である。
洛中洛外図屏風に描かれている場所は、決まっているようで、だいたい、油小路を中心として、右隻には東山と一条以南の下京を、左隻には、上京と嵐山、金閣寺などの西郊を描いている。視点の中心は、相国寺の塔などだそうだ。眺めてみると、自分の知っているところが、出てきていて、結構嬉しかったりする。また、右隻の左から右へ春から夏にかけての年中行事や風物が、左隻の左から右へは、秋から冬の風物などが書きこまれている。よく見てみると、祇園会の山鉾なども書かれている。すでにこのころから山鉾巡行が行われていたのだろう。
屏風の中に、金色の雲が、それぞれの画をつないでいる。これはどういう意味って一緒に行っていた奥さんに聞かれたので、これで空間とかを省略しているとか違うのかなと答えておいたのだが、気になって調べてみると、武田恒夫氏の見解に、もともと京都の名所各地の扇面があり、洛外洛中図は、その絵を屏風につなぎとめたもので、その間を埋めたのが雲形の手法であるとのこと。当たらずも遠からずってとこかな。
この時期に書かれた洛中洛外図屏風は、初期洛外洛中図と呼ばれ、現在、5点が残っている。
第3章になると、近世に入る。
近世以降の洛中洛外図については、後期洛中洛外図と呼ばれる。現存しているのは、ほとんどこの時代のものである。後期洛中洛外図には、二条城と方広寺の大仏殿が書かれるようになり、政治的な意図も見え隠れするようになる。二条城のところには、奉行所なども書かれ、徳川幕府の秩序が見えるのに対して、方広寺には、享楽的な風景が見える。また、二条城への天皇の行幸(?)も見ることができる。徳川幕府の権威づけの意図が見えるような気がする。
そして、描かれる範囲も賀茂や宇治も入るようになった。また中心部には、誓願寺というお寺も大きく書かれるようになった。誓願寺については、新京極を歩いていると見つけることのできる小さなお寺であるが、明治まではなかなか大きなお寺であったようだ。芸能とも大きく関係があり、落語もここが発祥の地であると言われている。展示されている「誓願寺門前図屏風」には、落語をしているような人物も見ることができた。
第4章以降になると、型が決まってしまい、あまり面白くない。もうおなかいっぱいの状態でもあったので、さっと見てしまった。
展示自体は、なかなか面白かったし、見ごたえはあったと思う。
京都文化博物館の常設展もいつのまにか変わってしまってました。
近代の京都の教育のところでは、同志社や京大については、説明があったのですが、以前あった立命や龍谷など他の大学がざっくりを抹殺されてた。京都の大学の歴史を語る中では、仏教系の学問所からつながる大学が多くあるのが京都の特色のような気がするのですが・・・。
京都文化博物館別館は、明治39年に竣工され、昭和40年まで日本銀行の京都支店として使用されたものであり、現在は、国の重要文化財に指定されている。このあたりは、煉瓦造りの建物がいくつか残っており、そういった建物を探しながら歩くのも楽しいところである。
我々も、せっかくなので近くにある老舗の喫茶店、イノダコーヒ(コーヒーではない。)によって帰った。
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