休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

飛鳥の古墳⑤ 牽牛子塚古墳

2015-04-19 14:58:09 | 史跡を歩く
 橿原市にある沼山古墳から、橿原市立白橿中学校の裏に向かっていき、そのまま新興住宅地を出て山道を登っていくと竹藪を抜けたあたりに牽牛子塚古墳と書いた案内板を見つける。その案内に従って山の尾根道をつたっていくと、牽牛子塚古墳の裏側に出た。

 

 牽牛子塚古墳については、版築で築かれた対辺約22m、高さ4.5m以上を測る八角形墳である。また、埋葬施設については、横口式石槨であり、二つの墓室がくり抜かれている合葬墓である。

 

 

 

 内部構造は、長さ2mの墓室があり、底面には、長さ約1.95m、幅約80cmの棺台が削り出されている。棺台については、写真でもお分かりのようにはっきりと見ることができる。また、天井は、少しドーム状になっている。
 また、墓室には、外扉と内扉があったと考えられ、外扉は現地に倒れた形のまま残っている。

 


 なお、過去の発掘調査から、この古墳から夾紵棺の破片が見つかっており、かなり身分の高い人が葬られていたと言えそうである。

 

 現在は、写真のようにすっぽりとビニールシートにカバーされており、墳丘をじかに見ることはできなくなっている。

 最近の発掘調査によると、八角形の石敷きが発掘されたことから飛鳥時代の大王墓に用いられた八角墳であることが判明している。墳丘は、3段で築造されており、墳丘の斜面には貼石が施されていたようだ。
 また、この時の調査において、牽牛子塚古墳に隣接する場所で、同じころに造られたとみられる越塚御門古墳が見つかっている。斉明天皇の陵墓については、日本書紀の天智天皇の六年の春二月に雨豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇后とを小市岡上陵に合葬したが、この日、皇孫、太田皇女を陵前の墓に葬ったとの記述がある。

 このたび、牽牛子塚古墳の前に、越塚御門古墳が見つかったことにより、この日本書紀の記述が裏付けられたと言えそうである。ただ、この越塚御門古墳については、すでに埋め戻されており、見ることはできない。現地の案内板に掲示されている写真から想定するとこの辺りにあったんじゃないだろうと思う。

 

 斉明天皇の真陵については、岩屋山古墳、小谷古墳などの諸説があったが、牽牛子塚古墳の発掘調査の結果一定の確定をみたような感じである。ただ、宮内庁とかは特に見直しをするということはないようである。

 

 今後、牽牛子塚古墳についても、周辺を整備する計画があるようである。高松塚古墳やマルコ山古墳のように変にきれいに整備をしてほしくないなあと思う。できれば、現在のまま整備をして残してほしい気がする。人里しれずひっそりとある古墳というのもいいんじゃないのかな。

 そういえば、牽牛子塚古墳の近くには、真弓鑵子塚古墳と呼ばれる横穴式石室を持った古墳があるのだが、フェンスでさえぎられており、古墳自体に立ち寄ることができなくなっている。
 
 

 少し前までは、入ることができたようなのだが、何があったのか?見学者のマナー違反等もあったのだろうかと思ったりする。石室の広さは石舞台古墳に匹敵するぐらいあり、また、羨道が2つあるという珍しい形をした石室なのだそうだが、全く見ることができない。残念なことである。

 

 古墳の所在を示した案内板が哀しい。

 

 この森の中に古墳がある。いつの日にかお目にかかりたいと念じ続けよう。想いはいつか届くかもしれない。(笑)

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