物集女車塚古墳を見学した時に、受付をしていた向日市の職員の方に是非ともと熱心に進められたので、淳和天皇火葬塚を訪問したのち、阪急電車に乗って大山崎駅で下車、大山崎山荘美術館をめざす。美術館までの道のりは結構傾斜がきつい。
それでも急な坂道を登っていくと大山崎山荘美術館の入り口があり、漱石の句碑がある。句碑には、「宝寺の隣に住んで櫻なり」と刻まれており、漱石が、この大山崎山荘を訪れた際に詠んだものだそうだ。
句碑のある場所から左に折れて歩いていくと「琅玕洞」(ろうかんどう)と呼ばれるレンガ造りのトンネルを通っていく。
「琅玕洞」から美術館の建物までこれまた広い庭を歩いていくことになる。新緑の緑も美しいものがあるが、秋の頃はきっと木々が紅葉して、きっと燃え上がるような紅葉が見れそうだなと思う。
大山崎山荘美術館と書かれた看板がある門から入っていく。
大山崎山荘美術館は、ニッカウヰスキーの創始者のひとりである加賀正太郎氏の山荘を、加賀氏の死後、アサヒビールが支援をして作った美術館である。この美術館に来て初めて知ったのだが、ニッカウヰスキーって今はアサヒビールの子会社になっているらしい。最近、ウイスキーってどうなんだろう。昔は、家に置いている所って多かったような気がするが、今、家で飲んでいるという声をあまり聞かない。
この日、この大山崎山荘美術館を訪れたきっかけは、おすすめされたということもあるが、ちょうど岩波新書の「夏目漱石」を読んでいて、その中に妻と一緒にこの大山崎山荘を訪れて、京都見物をしたという記述があったからだ。ちょうどこの時、漱石の生誕150年を記念して「漱石と京都」展を開催していた。
漱石とこの山荘の創始者加賀氏との書簡が見つかり、この美術館で保存されることになった。その書簡が展示されている。
この山荘に招いた理由として、この山荘の名称を漱石につけてもらいたかったようだ。残念ながら漱石の方はいい名称が浮かばなかったのか10個ほどの名称を考え送っている。あんまり、気乗りがしていないことがわかるような名称だった。
結局、漱石の名称は採用せず「大山崎山荘」という名称にしたらしい。書簡以外には、「京に着ける夕」というエッセイの全文を掲げて、エッセイに出てくる場所を一覧にしていた。
京都と漱石というと、「虞美人草」の書き出しが印象深い。
大山崎山荘美術館は、バブルの時には、建物が老朽化し、一時は取り壊される話もあったらしい。それを住民が保存運動をして、最終的に上記の所縁からアサヒビールが支援して美術館として保存をしたものである。日本の企業としては英断だよね。この時期、企業メセナというのが流行っていたとはいえ、素晴らしい。日本の企業は、見返りのない文化事業にはお金を使わない印象があるもんな。
この山の緑と明治時代の別荘建築が見れるだけでも、訪れる十分な価値があるけどね。
大山崎山荘美術館を出て、桂川、木津川、淀川の三川合流の地を眺望するため、天王山を登ってみることにした。これが想像以上に大変だったのである。
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