大山崎山荘美術館を出て、案内板に従って天王山に登ることにした。もともと軽いタッチで、お天気もいいし、せっかくやから登らはったらという甘い誘いに乗って登り始めたのだが、これが予想だにしないほど大変であった。道がかなり急なのと、道自体が小石などで凸凹しており、なかなか簡単に登らせてくれない。標高270mということなのだが、かなり健脚向きなコースではなかっただろうか?
とにかく、例の三川合流の地を見たいという思いだけで、山を登り始めた。途中、7合目ぐらいのところで青木葉展望台があり、ここからの景色はなかなか展望が開けてて良い気がする。
これが三川合流の地なのか?遠くにはあべのハルカスも見ることができ、非常によい眺めであった。そして、展望台の端には、山崎の戦いを物語にした陶板画が設置されていた。この陶板画は、天王山の登山道の要所要所に立てられている。
さらに8合目まで登ると、旗立松展望台がある。旗立松とは、豊臣秀吉が山崎の戦にて明智光秀と戦ったとき、味方の士気を高めるためにここの松に「千成ひょうたん」を掲げたという逸話によるもので、今の松は、7代目にあたるのだそうだ。
また、そばには、山崎合戦の石碑も建てられている。
ここにも展望台があり、ここからも山麓に流れる淀川などの姿がよく見える。おそらく、この見えるあたりで豊臣秀吉と明智光秀の天下分け目と言われた山崎の戦が繰り広げられたのであろう。
もう少し登ると、幕末、禁門の変で長州方として参陣した真木和泉以下17人の志士のお墓がある。ここのお墓には、小さいころ家族で来た記憶があるのでたぶん、みんなで下から登って行ったのだろう。とても残念だが、お墓の記憶だけしかないのだなあ。
ちょっと登山道から外れて、十七烈士のお墓をお参りした後、登山道に合流し、再び急な登山道を登っていくことにした。考えると幕末、多くの人たちが、江戸幕府を倒し、新しい日本を作るために命を落としている。果たして、明治以後の日本は、多くの人が夢を見たような世の中になっているのであろうか?
少し考えさせられるものがある。
山頂には、自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)という社がある。祭神は、素戔嗚尊であり、中世の頃は、山崎天王社と呼ばれており、天王山の名称は、山崎天王社の名称から来ているという。
酒解神社を越えると、頂上、山崎城跡はすぐそこである。
山崎城については、完全に思い違いをしていて、山崎の戦のときに豊臣秀吉がここに城を構えたと思っていたのだが、どうやら違うらしく、山崎の合戦後にここに城を築いたのだという。そうだわなあ。中国から大返しと言われるほどスピーディに戻ってきたのに、そんな有料に城なんて構えている時間はないわな。
ちなみに山崎城は、大坂城が建設された後、役割を終え、廃城とされている。
そして、山頂にあった山崎城については、まったく建物自体は残っていないが、虎口や曲輪、堀切など秀吉の時代の城の遺構はかなり残っているようだ。
山頂には、天守台の跡があり、わずかに石垣のようなものが見ることができる。また、門柱の礎石なのか文様の入った石もいくつか見ることができる。また、天守台の跡と考えられるところには天下分け目の天王山と書かれた幟が立てられていた。
山崎城跡自体は、発掘調査等されていないので、詳しい状況はわかっていないようだ。
ちなみに、山崎城は、大坂城ができるまでは、豊臣秀吉はここを居城としていたらしい。
帰りは、山崎聖天側に下ることにした。山から下りるとちょうど前に大山崎瓦窯跡との説明板と石碑が建っていた。
ここで平安宮の朝堂院などの瓦を制作していたらしく、国の史跡に指定されている。見ると崖みたいになっており、一部ブルーシートが敷かれているところがあったので、もしかしたら、発掘調査がなされているのかもしれない。
大山崎瓦窯跡からは、住宅街を抜けて、阪急大山崎駅に着いた頃には、膝がガクガク。膝が笑うというのはこのことかという状態であった。ただ、頂上の山崎城跡の遺構などを見れたので、まあ、満足な行程であった。
人のいう事もたまには聞いてみるのものであるもんです。
とにかく、例の三川合流の地を見たいという思いだけで、山を登り始めた。途中、7合目ぐらいのところで青木葉展望台があり、ここからの景色はなかなか展望が開けてて良い気がする。
これが三川合流の地なのか?遠くにはあべのハルカスも見ることができ、非常によい眺めであった。そして、展望台の端には、山崎の戦いを物語にした陶板画が設置されていた。この陶板画は、天王山の登山道の要所要所に立てられている。
さらに8合目まで登ると、旗立松展望台がある。旗立松とは、豊臣秀吉が山崎の戦にて明智光秀と戦ったとき、味方の士気を高めるためにここの松に「千成ひょうたん」を掲げたという逸話によるもので、今の松は、7代目にあたるのだそうだ。
また、そばには、山崎合戦の石碑も建てられている。
ここにも展望台があり、ここからも山麓に流れる淀川などの姿がよく見える。おそらく、この見えるあたりで豊臣秀吉と明智光秀の天下分け目と言われた山崎の戦が繰り広げられたのであろう。
もう少し登ると、幕末、禁門の変で長州方として参陣した真木和泉以下17人の志士のお墓がある。ここのお墓には、小さいころ家族で来た記憶があるのでたぶん、みんなで下から登って行ったのだろう。とても残念だが、お墓の記憶だけしかないのだなあ。
ちょっと登山道から外れて、十七烈士のお墓をお参りした後、登山道に合流し、再び急な登山道を登っていくことにした。考えると幕末、多くの人たちが、江戸幕府を倒し、新しい日本を作るために命を落としている。果たして、明治以後の日本は、多くの人が夢を見たような世の中になっているのであろうか?
少し考えさせられるものがある。
山頂には、自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)という社がある。祭神は、素戔嗚尊であり、中世の頃は、山崎天王社と呼ばれており、天王山の名称は、山崎天王社の名称から来ているという。
酒解神社を越えると、頂上、山崎城跡はすぐそこである。
山崎城については、完全に思い違いをしていて、山崎の戦のときに豊臣秀吉がここに城を構えたと思っていたのだが、どうやら違うらしく、山崎の合戦後にここに城を築いたのだという。そうだわなあ。中国から大返しと言われるほどスピーディに戻ってきたのに、そんな有料に城なんて構えている時間はないわな。
ちなみに山崎城は、大坂城が建設された後、役割を終え、廃城とされている。
そして、山頂にあった山崎城については、まったく建物自体は残っていないが、虎口や曲輪、堀切など秀吉の時代の城の遺構はかなり残っているようだ。
山頂には、天守台の跡があり、わずかに石垣のようなものが見ることができる。また、門柱の礎石なのか文様の入った石もいくつか見ることができる。また、天守台の跡と考えられるところには天下分け目の天王山と書かれた幟が立てられていた。
山崎城跡自体は、発掘調査等されていないので、詳しい状況はわかっていないようだ。
ちなみに、山崎城は、大坂城ができるまでは、豊臣秀吉はここを居城としていたらしい。
帰りは、山崎聖天側に下ることにした。山から下りるとちょうど前に大山崎瓦窯跡との説明板と石碑が建っていた。
ここで平安宮の朝堂院などの瓦を制作していたらしく、国の史跡に指定されている。見ると崖みたいになっており、一部ブルーシートが敷かれているところがあったので、もしかしたら、発掘調査がなされているのかもしれない。
大山崎瓦窯跡からは、住宅街を抜けて、阪急大山崎駅に着いた頃には、膝がガクガク。膝が笑うというのはこのことかという状態であった。ただ、頂上の山崎城跡の遺構などを見れたので、まあ、満足な行程であった。
人のいう事もたまには聞いてみるのものであるもんです。
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