南山古墳から元来た道を引き返し、宇陀市の運動場や体育館の方へ向かい、そのまま、ひのき坂の住宅街の中へ入る。ここから一気に景観が変わり、新興住宅地の中を歩いていくことになる。
ひのき坂住宅街の真ん中にある古墳公園の中に古墳と気づかれる様子もなくひっそりと奥の芝1号墳があった。付近にはそれと知らせる看板の存在もなく、古墳公園らしくないものであった。
奥の芝1号墳とこの後に行く予定の奥の芝2号墳は、宇陀市の教育委員会に申し込めば鍵を貸してもらえるので、鍵を借りて入室してみることにした。
鍵を借りて中に入ると、きれいに直線的に榛原石を積み上げた磚積石室である。また古墳自体はおそらく山の尾根を刳り抜いて石室を作ったような感じである。その他大きな墳丘を盛り上げるという事はなく、この古墳も径18mほどの大きさである。
奥の芝1号墳の石室の大きさは、長さ6.3m、そのうち玄室は長さ2.6m、幅1.2m、高さ1.5mとなっている。先に見た南山古墳と違い、石室に漆喰は使われていないようである。磚積石室に漆喰を使用しているのかしていないのかが、被葬者の身分差を反映しているのではないかという考えもあるようだ。
この見事な磚積石室を持つ奥の芝1号墳だが、実は、昭和60年に宅地造成で、開発業者によって破壊されており、その後、移築復元されている。
ただ、その際足らない石材は新たに切り出されて使われているそうだ。
そういう話を聞いてしまうと、ちょっと残念な気持ちになってしまう。ただ、不思議なことに、発掘されてすぐに奈良県の史跡指定を受けているのだが、それは解除されていないようだ。
石材とかがそのまま使用されているからなのかな。
しかし、バブル期直前で、特にこの辺りの土地の需要は高かったであろうとは思うが無茶なことをしたもんである。今でも古墳を文化財なんて思っていない連中は山ほどいるからねえ。
何となく数えてみたら奥壁は18段を数えた。大した技術である。
ちなみに、橿原考古学研究所の検証では、この古墳を造るのには、石切作業や運搬、石積などで延べ400人余りの人が動員されたらしい。
最後に、この古墳が築造されたのは、7世紀の中頃と考えられている。そういえば、古墳の傍に1本、樹が紅葉していて、秋を感じさせる眺めであった。
この後は、もう少し南に下ったところにある2号墳を見に行くことにする。
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