河内大塚山古墳である。以前もこのブログで紹介したのだが、その時は、携帯のカメラで撮影しただけだったので、今回再訪して、改めてちゃんとしたカメラで撮影したので、再度投稿というわけである。
河内大塚山古墳は、羽曳野市と松原市との境に所在しており、実際、古墳の墳丘の上を市境がある珍しい古墳である。そのためか、全国で5番目に大きい古墳であるのになんとなく扱いがぞんざいなような気がする。ちなみに世情を賑わしている世界遺産には入っていない。
確かに古市古墳群からは、若干の距離はあるので、古市古墳群の一つとはしにくいかもしれないが、百舌鳥・古市古墳群とするならば、世界遺産登録の一つに加えても良かったのではと思ってしまう。しかし、この巨大な墳丘に、満々と周濠に水をたたえている姿は見ごたえは十分にある。
河内大塚山古墳は、墳丘長335m、後円部径185m、高さ20m、前方部幅230m、高さ4.5mの大きさである。後円部と比較して、前方部がかなり開いているので古墳時代の後期に造られた古墳の特徴を示している。ただ、前方部が非常に低く、平坦である。葺石はなく、また埴輪も使われていない可能性がある。
前方部は、一直線ではなく真ん中あたりで少しとがっている。剣菱型と言われる形をしている。北摂にある今城塚古墳も同様の特徴がある。
面白いことに、前方部に並行してある道路の側溝も真ん中あたりで剣菱型に折れている。
この辺の特徴を勘案すると、河内大塚山古墳の築造は、今城塚古墳と見瀬丸山古墳の間ぐらいかもしれない。ちなみに河内大塚山古墳も横穴式石室を持つと考えられている。
この墳丘への渡土堤は、後世のもの、古墳が築造されたときのものではない。ちなみに中世では、この周辺の他の大型古墳同様に、城郭として再利用されていたようである。
近世以降も、墳丘に集落があったそうだが、古墳が陵墓参考地に指定されると、古墳から退去させられたと言う。
古墳を見て歩くと、羽曳野市と松原市がそれぞれ案内板を立てているのだが、その内容が若干違っている。
築造が6世紀前半になっている。おそらく被葬者は、雄略天皇を想定しているような気がする。
6世紀中葉から後葉に築造されたと記しており、被葬者は、安閑天皇、欽明天皇説を述べ、墳丘未完成説も記述されている。
説明板が造られた時代が違うので内容にズレが生じているのも仕方ないところかもしれないけどね。
この河内大塚山古墳、継体天皇以降の大王と大きくかかわりのある古墳だとは思うが、意外とこれといった被葬者も浮かびにくい。皇統譜でいうと、安閑天皇か宣化天皇ぐらいが有力なのだろうが・・・。
古墳づくりも、今城塚古墳で一つのピークを迎え、新機軸を打ち出すための試作品だったのかも。この後、まもなく前方後円墳ではなく、大王墓は、別の形式を採用するようになる。前方部に比べて、後円部が大きいのは、この後そこにつながっていくのかもしれない。
いろんな謎を秘めつつも、その雄大な姿を今にとどめている。そして、これからもいろいろな検討がされていくのだろう。楽しみである。
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