大阪城では、大坂夏の陣から400年を機に、初代の大坂城の石垣を掘り起し、公開する展示施設の建設を計画している豊臣石垣公開プロジェクトなるものが行われており、今回の発掘調査は、これまでの発掘調査で判明した「金蔵」に伴う石列及び石組みの溝を明らかにし、徳川期の遺構の状況を把握することを目的に行われている。
はじめに、「金蔵」であるが、徳川期の大坂城から残る数少ない建物である。国の重要文化財に指定されている。
現地説明会の際にもらった資料によると、この金蔵には、畿内・西国からの年貢金や長崎貿易の収益金が納められ、西国における幕府の経済的基盤を担っていたそうで、ここには、幕府の金貨や銀貨が保管されていたそうだ。江戸時代の金蔵は、天守閣は天守台の南東に2棟あり、現存しているのはそのうちの18世紀中ごろに長屋を改築して造られた「新金蔵」の方だとのことだ。もともとは、2階建てだったが、天保年間に1階建てに改築されたのだという。
さて発掘調査だが、発掘調査については、「東側調査区」と「西側調査区」に分けられて行われており、「金蔵」横の西側調査区では、これまで下の写真のような石列1及び石組溝1が出土している。
この石列1と石組溝1は、これまでの発掘調査で見つかっており、大坂城絵図に書かれている金蔵の区画施設だと考えられている。石列1の上には、塀が建てられていたと考えられており、石組溝1の方は、塀に伴う側溝であるらしい。なお、写真の奥のコンクリート造りの基礎は、戦前の建物の跡である。
今回、改めて発掘されたのは、これまでと違った東西に走る石列と石組溝である。
写真で奥の方になるが、石列2と手前上から下にある石造りの溝が石組溝2である。石組溝2は、石列1と石組溝1を破壊して作られている。また奥にある石列2は石組溝2の下層で発見されている。
もう一つ、「東調査区」では、瓦廃棄穴が見つかっている。
これは幕末、戊辰戦争の時に火災によって焼失し建物の瓦などを埋めた場所である。そして、この瓦廃棄穴からは、徳川家の三つ葉葵の紋が入った瓦が発掘されている。
また、玉砂利で敷かれた道も見つかっており、この道は、馬印櫓から天守閣まで続いていたそうである。
この発掘調査は、まだまだ続く予定であり、最終的には豊臣期の石垣を見つけることが目的であり、ここに展示施設ができるのだと言う。豊臣石垣公開プロジェクトというわけで、いつかはここに展示施設ができることになるらしい。
なにかすごい発見があるかもしれない。
はじめに、「金蔵」であるが、徳川期の大坂城から残る数少ない建物である。国の重要文化財に指定されている。
現地説明会の際にもらった資料によると、この金蔵には、畿内・西国からの年貢金や長崎貿易の収益金が納められ、西国における幕府の経済的基盤を担っていたそうで、ここには、幕府の金貨や銀貨が保管されていたそうだ。江戸時代の金蔵は、天守閣は天守台の南東に2棟あり、現存しているのはそのうちの18世紀中ごろに長屋を改築して造られた「新金蔵」の方だとのことだ。もともとは、2階建てだったが、天保年間に1階建てに改築されたのだという。
さて発掘調査だが、発掘調査については、「東側調査区」と「西側調査区」に分けられて行われており、「金蔵」横の西側調査区では、これまで下の写真のような石列1及び石組溝1が出土している。
この石列1と石組溝1は、これまでの発掘調査で見つかっており、大坂城絵図に書かれている金蔵の区画施設だと考えられている。石列1の上には、塀が建てられていたと考えられており、石組溝1の方は、塀に伴う側溝であるらしい。なお、写真の奥のコンクリート造りの基礎は、戦前の建物の跡である。
今回、改めて発掘されたのは、これまでと違った東西に走る石列と石組溝である。
写真で奥の方になるが、石列2と手前上から下にある石造りの溝が石組溝2である。石組溝2は、石列1と石組溝1を破壊して作られている。また奥にある石列2は石組溝2の下層で発見されている。
もう一つ、「東調査区」では、瓦廃棄穴が見つかっている。
これは幕末、戊辰戦争の時に火災によって焼失し建物の瓦などを埋めた場所である。そして、この瓦廃棄穴からは、徳川家の三つ葉葵の紋が入った瓦が発掘されている。
また、玉砂利で敷かれた道も見つかっており、この道は、馬印櫓から天守閣まで続いていたそうである。
この発掘調査は、まだまだ続く予定であり、最終的には豊臣期の石垣を見つけることが目的であり、ここに展示施設ができるのだと言う。豊臣石垣公開プロジェクトというわけで、いつかはここに展示施設ができることになるらしい。
なにかすごい発見があるかもしれない。
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