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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

古市古墳群を歩く(藤井寺市編)② ~サンド山古墳と番所山古墳~

2014-09-29 00:32:28 | 史跡を歩く
 岡ミサンザイ古墳から割塚古墳を横に眺めながら歩いていくと、ノアの箱舟のような珍しい形の建物が見えてくる。

 

 藤井寺市の生涯学習センター「アイセル・シュラホール」である。この2階に旧石器時代から奈良時代に至る藤井寺市で出土した歴史資料が展示されている展示室がある。そういえば、藤井寺市には国府遺跡という旧石器時代の著名なあるのだが、最近すっかりと影が薄くなってしまっている。そして圧巻は、墓山古墳の陪冢であった西墓山古墳の埋葬施設が復元展示されている。西墓山古墳は、浄元寺山古墳のすぐそばにあった一辺20mほどの方墳であったが、2つの埋葬施設からは200以上の太刀や剣、あるいは鉄製の農工具などが出土している。人間が埋葬された痕跡はなく、単に副葬品だけを埋葬した古墳であったらしい。おそらく当時鉄製品というのは貴重な物であっただろうから、これだけの多くの鉄製品を埋納できた被葬者の財力とはいかなるものだったのだろうかと思ってしまう。また、何のためにと考えてしまうのだが、こういうのを見ていると、昔、文化人類学で習ったポトラッチという風習を思い起こしてしまう。
 また、城山古墳から出土した水鳥の埴輪なども展示されている。この埴輪は、国の重要文化財となっている。
 加えて、数年前に中国で発見され話題となった奈良時代の遣唐使、井真成の墓誌のレプリカも展示されている。井真成が、藤井氏あるいは井上氏に関係のある人物であるという説にちなんで展示されているものである。ちなみにこの墓誌は、現存している石刻資料として、日本という国号を使っている最古のものなのだそうだ。
 「アイセル・シュラホール」のシュラは、藤井寺市にある三ツ塚古墳から出土した修羅にちなんだものである。しかし、この内容で無料とはすごいなあ。是非とも古墳めぐりの時には利用したい施設である。

 藤井寺市生涯学習センターを出て、東へ向かうと住宅街に入る、しばらく行くと、家々の間に挟まれて金網に囲まれた2つの塚が見える。サンド山古墳である。

 

 サンド山古墳は、一見前方後円形に見えるが、軸が完全にずれているので、前方後円墳とはいいがたい。古墳がどうかも定かでない気がするが、わずかではあるが円筒埴輪が周辺で見つかっているので、古墳であることは間違いはないようだ。そして、見つかった円筒埴輪からは、5世紀後半の築造だと推定されている。ただし、墳形については、不明としか言いようがない。
 サンド山古墳は、応神天皇陵のへ号陪冢に治定されている。

 

 墳丘には、陪冢であることを示す石碑が建っている。サンド山古墳の南側の道路との間にはポケットパークになっている小さな空間がある。訪れた時、ポケットパークに生まれたての子猫が何匹もいた。親猫らしき猫は、古墳の上でのんびり寝そべっていた。この子猫たちはここで成長していくことができるんだろうか?少し心配になった。そういえば、我が家にも、野良猫なのだが自分に家みたいに家の塀などにいつも寝そべっている猫がいたなあ。夜遅く仕事で疲れて帰って来た時は、結構癒されたなあ。

 このサンド山古墳から、南に少し住宅街の中を歩いていくと、住宅街のターミナルのようになっているところがある。

 

 近づいていくと、ターミナルの中心に円墳のような小高い丸い丘がある。番所山古墳と呼ばれる円墳である。データを記すと、直径22m、高さ3mとされており、周辺から採集された円筒埴輪から推測すると、この古墳もサンド山古墳と同様に5世紀後半の築造になるそうだ。

 

 この古墳についても、正式な発掘調査はされていないため、埋葬施設等は不明であるが、付近の住宅の開発の時に周濠らしきものが見つかっているので、もしかすると古くは周濠に囲まれていたのかもしれない。また、周辺には、すでに消滅しているが、サンド山2号墳、番上山古墳と呼ばれる古墳が見つかっている。
 ちなみに、この番所山古墳も、国の史跡に指定されている。

 

 おそらく、この住宅地を開発する時にこの古墳を保存することは決まっていたのだろう。開発者の先見の明に敬服する次第である。

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