将軍塚古墳のすぐ横、同じ丘の上に将軍山古墳(2号墳)の竪穴式石室が移築されている。雑草に覆われているため、一見石室のありかが分かりにくいが、解説板がが立てられているおかげで、その場所を確認することができた。
正直、雑草をかき分けて、やっと近づくことができる状態であり、狭い場所にあるので、石室をいろんな方向から観察することは難しい。
将軍山古墳群については、この丘陵上に作られた7基(前方後円墳1基、円墳6基。なお将軍塚古墳を将軍山古墳1号墳とする。)あり、このうち、前方後円墳であった2号墳の石室が、この場所に移築保存されている。まお、将軍塚古墳(将軍山1号墳)を除き、すべて宅地造成等により消滅している。
将軍山2号墳については、全長107mの前方後円墳であり、後円部径76m、高さ14m、前方部幅40m、高さ7mの規模を誇る。墳丘は、葺石に覆われ、三段築造で4世紀の後半のものと考えられている。
移築された竪穴式石室は、一部天井石がないところがあり、フェンス越しではあるが石室の中を見ることができる。
石室の側面は結晶片岩の板状の割石を小口積みで作っている。この石は和歌山県の紀の川流域から持ってきたものだそうだ。赤いのは、埋葬時、赤色顔料が用いられたことを示しているのだろうか?
また、石室の底を粘土でU字型にして、その上に木棺が置かれていたらしい。
古墳からは、勾玉やガラス玉。鉄鏃、鉄剣、鉄剣、短甲片などが出土しており、この後、訪れる予定の阿為神社の神宝、三角縁神獣鏡古墳から出土したものと伝えられる。
この2号墳以外の古墳は、いずれも横穴式石室が用いられており、6世紀に造られたものと考えられている。
このあとは、再び、追手門学院大学に戻り、さらに東側にある阿為神社へ行く。
大学から、神社へ行く道は、茨木市ものこんな田園風景が残っているのかとビックリするぐらいの穏やかな景色が続く。そうして、丘陵のふもとに阿為神社の鳥居が見える。
これは、また階段を登っていかないといけないのだなあとちょっと食傷気味につぶやく。同行者はふうふうと息も絶え絶えという感じだ。
石造りなかなか立派な鳥居である。
阿為神社は、中臣氏の祖神、天児屋根命のほか三神を祀っている式内社であり、藤原鎌足の勧請で創建されたと伝えられる。
これが、拝殿。境内も広く、村の鎮守というよりは遥かに立派な感じである。後で気が付いたのだが、阿為神社の中に稲荷神社の奥に安威古墳群があったらしい。
全然気が付かなかったなあ。しっかり予習しておくんだった。しかし、この辺り、阿為神社といい、将軍塚古墳といい、藤原氏の祖、中臣氏の影がちらちらする。ところが意外と中臣氏の姿がよくわからない。忌部氏とともに宮中の祭祀等に携わったとは言われるが・・・。
ここまで来たのだからということで、この後は、今城塚古墳と古墳館に向かうことにした。
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