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阿為神社から今城塚古墳へは、自動車に乗せてもらったので、スイスイとあっという間に到着。途中塚原古墳群などという看板もあり、ちょっと心惹かれるものがあったのだが、これは別の機会に置いておこう。
さて、今城塚古墳である。この古墳は、昭和33年に国の史跡に指定されており、平成9年から平成18年に渡って長期に発掘調査が行われており、調査では、墳丘の段築や造出しの状況、石室の基盤工などが明らかにされた。
平成11年には、隣接する今城塚古代歴史館とともに古墳公園としてオープンした。
公園内に、古墳の復元模型が置かれており、それを見ると、今城深古墳は、二重濠を持つ前方部二段、後円部三段で築造された前方後円墳である。発掘調査によって、外濠は、空濠でであることがわかってる。墳丘の長さは190m、前方部幅約140m、後円部径約100mということで、後円部と比較して前方部が発達した、古墳時代後期の古墳の特徴が出ている。
今城塚古墳の墳丘には、前方部と後円部が接合している造出しの所の階段から登ることができる。
登ってみるとビックリ。墳丘上はぼこぼこである。
一体、どうしてこんなことになってんの?中世から近世にかけて、今城塚古墳の名称の通り、墳丘を城砦として利用したため、こんなに凸凹になっていると以前から考えられていたが、発掘調査の結果、これは、文禄5(1596)年に発生した伏見地震によって、墳丘が破壊された結果であると言われている。
伏見地震は、有馬ー高槻断層帯、六甲、淡路島断層帯を震源断層とし、マグニチュード7.25から7.75程度と考えられている直下型の地震である。この地震により、豊臣秀吉の居城であった指月伏見城の天守や東寺、天竜寺などの建築物が倒壊し、死者は1000人を超えたと言われている。
そのほか墳丘内の雨水を素早く排水するための墳丘内石組みと排水溝を組み合わせた遺構が検出されている。
また、今城塚古墳の埋葬施設は、横穴式石室と考えられており、その石室を支えるために石を敷いた基盤工なども確認されている。
ただ、残念なことに横穴式石室といった埋葬施設も、伏見地震により、微塵もなく破壊されてしまったらしい。
墳丘内は、いくつかの小径ができており、前方部に行くと、向かい合った内堤の上の埴輪が見え、墳丘から埴輪を見るという不思議な光景を見ることができる。また、前方部のほうの内濠には、水が貯められている。
かつて、今城塚古墳の前方部は、剣菱型ということで前方部の前面の中央部が内濠にせり出していると言われていたが、これも発掘調査の結果、地震で地滑りを起こした土が濠に流れ込んだものと考えられるようになった。その後、前方部の前面はまっすぐに整備されている。
でも、そうなると同じ剣菱型と言われる河内大塚山古墳や鳥屋ミサンザイ古墳は、どういうことになるのだろうか?
ということで、いったんここでこの項目は終わって、次は、内堤の埴輪群について記述することにしたい。
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