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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

上御霊神社 ~応仁の乱勃発の地~

2011-04-17 23:31:07 | 史跡を歩く
 あるきっかけがあって、京都は上京区にある上御霊神社に行ってきた。この界隈は学生時代全く寄り付くこともなかったので、何があるのか全く知らない。街並みは京都らしい日本建築の家が多く建っていて、落ち着いたたたずまいといった印象を受けた。
 上御霊神社の社名について正式には、御霊神社というのが正しいらしい。この神社の南に京都御所を挟んで別に下御霊神社という神社があることから、上御霊神社と言われるようになったらしい。
 祭神は、早良親王や井上内親王、他戸親王などを祭っており、俗に政治的に排斥された人たちを御霊として祭っている神社である。
 創建は、貞観5年というから、平安時代は清和天皇の時代。徐々に他氏を排斥しながら藤原氏が政治の中心舞台に出てくる過程のときであった。
 御霊信仰の早い段階のものなのであろう。

 上御霊神社の四脚門は、伏見城の遺構を移築したものと言われている。その四脚門のすぐそばに応仁の乱勃発地という石碑が建っている。


 応仁の乱については、将軍家や有力な守護大名家の後継者争いに端を発し、全国の守護大名を巻き込み、11年にわたって行なわれたいくさであり、この応仁の乱をきっかけに時代区分としては戦国時代に入るとされる。しかしながら最近、戦国時代は、応仁の乱より、細川政元らのおこした明応の政変が画期であるというほうが有力になっている。
 応仁の乱といえば、内藤湖南博士の応仁以前の歴史は、学ぶ必要がないと言った発言が有名ではあるけど、確かに京都市内で考えると、建築物等では応仁の乱以前のものは残っていないのが現状ではあるが、その意見を取り上げてどうこうというのはあまりないようである。
 その応仁の乱の始まりは、この御霊神社の森で行なわれた畠山政長と畠山義就の戦いであると言う。
 応仁の乱自体は、その後複雑な経過をたどり、11年間続くことになる。

 そういえば、応仁の乱を直接取り上げた本ってあんまりないような。昔、岩波新書で鈴木良一氏の「応仁の乱」という本があったぐらいじゃないでしょうか。
 経過が複雑であんまり興味を引かないのかもしれないですね。当時の人もなんで起こったかわからないみたいなことを書き残していたりしますしね。
 そういえば、室町時代を描いたものは、大河ドラマでも「花の乱」だけですよね。意外と人気がない。ただ、僕が学生時代は網野善彦らの社会史ブームもあったりで、中世史って人気が高かったような気がします。室町時代って文化史的に見ると、茶道、華道、能、狂言などど日本の文化を彩る要素が出てきた時代でもあり、そう言った意味では先の内藤湖南の発言も至言という気がします。
 
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