井上ひさし 希望としての笑い ~むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・~
高橋 敏夫著 角川SSC新書
昨年、なくなった井上ひさしについての評論である。取り上げられている作品については、小説よりも戯曲が多い。作者が、演劇や映画の評論が専門である関係であろう。ただ読んでいると、戯曲の方が井上ひさしの思想が色濃く出ているということもあるように感じられる。
僕と井上ひさしの出逢いはもはやかなり古い。中学校3年生の時には既に、新潮文庫の100冊ということで「ブンとフン」を読んでいたような記憶がある。ただ高校生、大学と好んで読んでいたのは「モッキンポット師」シリーズであった。高校生の時は大学生とは、こういうものであるのかと思って読んでいた。(おそらく僕の大学生像は、北杜夫の「どくとるマンボウ青春記」とテレビ番組の「俺たちの旅」で作られたような気がする。)
井上ひさしの笑いというか笑い本質自体が、権威者をわれわれの位置まで引き釣りおろすところにある。権力を無力化して改めて別の価値を見出すことになるのだろうか。僕が何となく権力とか権威を受け入れがたい部分があるのは、井上ひさしの影響かもしれない。
井上ひさしの小説で、直木賞を受賞した「手鎖心中」や江戸時代の代表的な戯作者を描いた「戯作者銘々伝」などは、戯作というもの、強いものを笑い、庶民の位置まで引きずりおろす。命がけでとことん笑うということを描いているのだろう。
「吉里吉里人」にいたっては、国家をネタにしている。当時高校生になったばかりだったから、この小説が作り出したブームであるミニ独立国ブームというものがあったということは覚えている。今でも残っているところはいくつかあるんだろうか。すっかり消えてしまった印象がある。
この小説、東北の小さな農村が突如日本から独立することに始まる。小説自体前編方言で記述されており、大阪からほとんど出たことのない僕のような人種には非常になじみのない言葉が並んでいた。よく考えれば大阪ほど、方言(なんだろうか?こちらでは大阪弁の方が標準語のような感じさえある。)を堂々と使い続けている地方も少ないだろう。東北という地方は、近代以来戊辰戦争からこの方、ずっと日本国から虐げられていた感じがある。その東北の一農村が独立国として、日本国と肩を並べようとしている。そこの国家というものを矮小化し、相対的なものとして見る視点が生まれるような気がする。
この小説のラストで、この小説の語り手であるキリキリ善兵衛なる人物がこう語る「このキリキリ善兵衛はこれまで300年待ったのだ。待ちついでに、この先も待ちつづけるさ。百姓どもに朝が訪れるまで、百年でも二百年でも、地の霊となってここにとどまり続けよう。どれ、新入りの地の霊たちのべそかき面を見てくるとするかな。」
そういった東北地方と日本国との関係を表しているような気がする。
このあたりから、方言論に始まって、日本語についても本がよく出版されるようになった。「私家版日本語文法」や「文章読本」などである。
僕自身は、高校の先生に読んでおいた方がよいと薦められて読んだ記憶がある。井上ひさしの文体は、非常に饒舌でたとえが多い。想像力が豊かな文章であると思う。
大学に入ったあたりから、あまり読んでいない。ちょっと政治色が強くなったことを嫌ったからだ。
最近、ふと読み直してみたくなり、何冊か読んでいるという状況で、そんな時に訃報を聞いた。
著者は、本書の後半で井上ひさしがいろいろな作家の生涯を元に、作品を描いている。それはその人の思いを後世の人に伝えるという主題を持っていると書いている。それは、一般の庶民を描いた作品にも表れているという。
この本を読んでいるときに、東日本大震災が起こった。多くの人が様々な想いを持った。僕たちは、この後を生きていくものとして、この想いを受け継いでいかないといけないのではないだろうか。
とにかく、私たちは、頑張れ東日本、頑張れ東京電力と応援するしかない。批判、批評は後からだ。
最後に、主語として生きるのか、述語として生きるのか。難しいなあと思う。
高橋 敏夫著 角川SSC新書
昨年、なくなった井上ひさしについての評論である。取り上げられている作品については、小説よりも戯曲が多い。作者が、演劇や映画の評論が専門である関係であろう。ただ読んでいると、戯曲の方が井上ひさしの思想が色濃く出ているということもあるように感じられる。
僕と井上ひさしの出逢いはもはやかなり古い。中学校3年生の時には既に、新潮文庫の100冊ということで「ブンとフン」を読んでいたような記憶がある。ただ高校生、大学と好んで読んでいたのは「モッキンポット師」シリーズであった。高校生の時は大学生とは、こういうものであるのかと思って読んでいた。(おそらく僕の大学生像は、北杜夫の「どくとるマンボウ青春記」とテレビ番組の「俺たちの旅」で作られたような気がする。)
井上ひさしの笑いというか笑い本質自体が、権威者をわれわれの位置まで引き釣りおろすところにある。権力を無力化して改めて別の価値を見出すことになるのだろうか。僕が何となく権力とか権威を受け入れがたい部分があるのは、井上ひさしの影響かもしれない。
井上ひさしの小説で、直木賞を受賞した「手鎖心中」や江戸時代の代表的な戯作者を描いた「戯作者銘々伝」などは、戯作というもの、強いものを笑い、庶民の位置まで引きずりおろす。命がけでとことん笑うということを描いているのだろう。
「吉里吉里人」にいたっては、国家をネタにしている。当時高校生になったばかりだったから、この小説が作り出したブームであるミニ独立国ブームというものがあったということは覚えている。今でも残っているところはいくつかあるんだろうか。すっかり消えてしまった印象がある。
この小説、東北の小さな農村が突如日本から独立することに始まる。小説自体前編方言で記述されており、大阪からほとんど出たことのない僕のような人種には非常になじみのない言葉が並んでいた。よく考えれば大阪ほど、方言(なんだろうか?こちらでは大阪弁の方が標準語のような感じさえある。)を堂々と使い続けている地方も少ないだろう。東北という地方は、近代以来戊辰戦争からこの方、ずっと日本国から虐げられていた感じがある。その東北の一農村が独立国として、日本国と肩を並べようとしている。そこの国家というものを矮小化し、相対的なものとして見る視点が生まれるような気がする。
この小説のラストで、この小説の語り手であるキリキリ善兵衛なる人物がこう語る「このキリキリ善兵衛はこれまで300年待ったのだ。待ちついでに、この先も待ちつづけるさ。百姓どもに朝が訪れるまで、百年でも二百年でも、地の霊となってここにとどまり続けよう。どれ、新入りの地の霊たちのべそかき面を見てくるとするかな。」
そういった東北地方と日本国との関係を表しているような気がする。
このあたりから、方言論に始まって、日本語についても本がよく出版されるようになった。「私家版日本語文法」や「文章読本」などである。
僕自身は、高校の先生に読んでおいた方がよいと薦められて読んだ記憶がある。井上ひさしの文体は、非常に饒舌でたとえが多い。想像力が豊かな文章であると思う。
大学に入ったあたりから、あまり読んでいない。ちょっと政治色が強くなったことを嫌ったからだ。
最近、ふと読み直してみたくなり、何冊か読んでいるという状況で、そんな時に訃報を聞いた。
著者は、本書の後半で井上ひさしがいろいろな作家の生涯を元に、作品を描いている。それはその人の思いを後世の人に伝えるという主題を持っていると書いている。それは、一般の庶民を描いた作品にも表れているという。
この本を読んでいるときに、東日本大震災が起こった。多くの人が様々な想いを持った。僕たちは、この後を生きていくものとして、この想いを受け継いでいかないといけないのではないだろうか。
とにかく、私たちは、頑張れ東日本、頑張れ東京電力と応援するしかない。批判、批評は後からだ。
最後に、主語として生きるのか、述語として生きるのか。難しいなあと思う。
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