先日、このブログにも書いたが小山田遺跡の現地説明会に参加した。その時、以前から気になっていた古墳、菖蒲池古墳が、現地説明会の会場のすぐそばにあるということで行ってみることにした。この古墳は、ちょっと昔(といっても30年以上もまえのことだなあ)、僕が中学生の頃友達と2人で来たことがある。その時は、今のような道もなく、田んぼのあぜ道を抜けるようにして石室までたどり着いたと思う。これ以来、この古墳の近くは通るのだが飛鳥散策のルートから外れているため、再訪するということはなかった。
最近、堀辰雄『大和路・信濃路』の中に収録されている「古墳」というエッセイを目にし、是非とも再訪してみたく思っていたところ、小山田遺跡の現地説明会があり、ついでに足を運んでみた。
菖蒲池古墳については、「古墳」というエッセイの中で次のように触れている。
「そうです、そのときはまず畝傍山の松林の中を歩きまわり、久米寺くめでらに出、それから軽かるや五条野などの古びた村を過ぎ、小さな池(それが菖蒲池か)のあった丘のうえの林の中を無理に抜けて、その南側の中腹にある古墳のほうへ出たのでしたね。――古代の遺物である、筋のいい古墳というものを見たのは僕にはそれがはじめてでした。丘の中腹に大きな石で囲った深い横穴があり、無慙むざんにもこわされた入口(いまは金網がはってある……)からのぞいてみると、その奥の方に石棺らしいものが二つ並んで見えていました。その石棺もひどく荒らされていて、奥の方のにはまだ石の蓋ふたがどうやら原形を留めたまま残っていますが、手前にある方は蓋など見るかげもなく毀こわされていました。
この古墳のように、夫婦をともに葬ったのか、一つの石廓せっかくのなかに二つの石棺を並べてあるのは比較的に珍らしいこと、すっかり荒らされている現在の状態でも分かるように、これらの石棺はかなり精妙に古代の家屋を模してつくられているが、それはずっと後期になって現われた様式であること、それからこの石棺の内部は乾漆になっていたこと、そして一めんに朱で塗られてあったと見え、いまでもまだところどころに朱の色が鮮やかに残っているそうであること、――そういう細かいことまでよく調べて来たものだと君の説明を聞いて僕は感心しながらも、さりげなさそうな顔つきをしてその中をのぞいていました。その玄室の奥ぶかくから漂ってくる一種の湿め湿めとした気とともに、原始人らしい死の観念がそのあたりからいまだに消え失せずにいるようで、僕はだんだん異様な身ぶるいさえ感じ出していました。」
僕が再訪した時は、かなりの人が来ており、なかなかエッセイの雰囲気を味わうことはできなかったのだが、エッセイにもある通り、大きな石室の中に、2つの家型石室が並んでいるのを覆屋の柵越しに見ることができた。
石室の内部は、切り石で作られており、上部に行くほど狭くなっている。石全体の漆喰を塗っていたようで、ところどころ禿げた様子が見ることができる。
なお、手前の方の石棺は、全面を破壊されている。「石棺の内部は乾漆になっている。」と書かれているのだが、懐中電灯を持っていたのだが石棺の内部まで光が差さず、観察できなかった。
菖蒲池古墳については、7世紀中ごろの築造だと言われている。大きさは、近年の発掘調査の結果、一辺約30mの方墳であることが判明している。また、古墳を作る上では、丘陵の南側を削って整地をしたうえで造られており、風水思想にかなったものである。堀割りも見つかっており、敷石が敷かれていたという。また、墳丘については、版築が見つかっている。敷石や版築は当時の宮殿や寺院などで使われている当時の最新の土木技術であり、限られた遺跡でしか見つかっていないらしい。(このときは、剥ぎ取った版築を、歴史に憩う橿原市博物館で見ることができた。)
また、横穴式石室については、羨道部分を描いているが、長さ約7m、幅2.6m、高さ2.6mとのこと。同じく飛鳥地方にある岩屋山古墳との類似を指摘する声もある。
同じ丘陵上に、藤原宮の頃の遺構が見つかっており、早くもこの時代に、菖蒲池古墳の破壊が始まっているとのこと。ということは、7世紀の中ごろまでは、権勢を誇り、持統天皇の頃には勢力を失った豪族の墓であるいうことまでは言えそうだ。
ちょっと「古墳」というエッセイに立ち戻ると、菖蒲池古墳から、古代人の他界観に触れている。少し引用をしてみたい。
「あの菖蒲池古墳についてかんがえて見ます。あの古墳に見られるごとき古代の家屋をいかにも真似たような石棺様式、――それはそのなかに安置せらるべき死者が、死後もなおずっとそこで生前とほとんど同様の生活をいとなむものと考えた原始的な他界信仰のあらわれ、或いはその信仰の継続でありましょう。しかし、僕たちが見たその古墳のように、その切妻形の屋根といい、浅く彫上げてある柱といい、いかにもその家屋の真似が精妙になってきだすのと前後して、突然、そういう立派な古墳というものがこの世から姿を消してしまうことになったのです。これはなかなか面白い現象のようです。勿論、それには他からの原因もいろいろあったでしょう。だが、そういう現象を内面的に考えてみても考えられないことはない。つまり、そういう精妙な古墳をつくるほど頭脳の進んで来た古代人は、それと同時にまた、もはや前代の人々のもっていたような素朴な他界信仰からも完全にぬけ出してきたのです。――一方、火葬や風葬などというものが流行はやってきて、彼等のあいだには死というものに対する考えかたがぐっと変って来ました。」
古墳に表れている他界観については、古代人が思う「あの世の世界」を再現しているのではないかと言われている。このあたりは、エジプトのピラミッドの世界観と一緒であるような気がする。
菖蒲池古墳のある丘陵の東側を眺めてみた。
写真のように堀辰雄がみた菖蒲池はすでに埋め立てられていて、新興住宅地になっていた。
石室へのルートも昔と変わっていて、西側にある奈良県立支援学校の方から入るようになっていた。
菖蒲池古墳は、国の史跡となっており、また世界遺産「飛鳥・奈良の宮都とその関連資産群」を構成要素として暫定リストに加えられている。
今度は、もう少し人がいない時期に行ってみたいな。
最近、堀辰雄『大和路・信濃路』の中に収録されている「古墳」というエッセイを目にし、是非とも再訪してみたく思っていたところ、小山田遺跡の現地説明会があり、ついでに足を運んでみた。
菖蒲池古墳については、「古墳」というエッセイの中で次のように触れている。
「そうです、そのときはまず畝傍山の松林の中を歩きまわり、久米寺くめでらに出、それから軽かるや五条野などの古びた村を過ぎ、小さな池(それが菖蒲池か)のあった丘のうえの林の中を無理に抜けて、その南側の中腹にある古墳のほうへ出たのでしたね。――古代の遺物である、筋のいい古墳というものを見たのは僕にはそれがはじめてでした。丘の中腹に大きな石で囲った深い横穴があり、無慙むざんにもこわされた入口(いまは金網がはってある……)からのぞいてみると、その奥の方に石棺らしいものが二つ並んで見えていました。その石棺もひどく荒らされていて、奥の方のにはまだ石の蓋ふたがどうやら原形を留めたまま残っていますが、手前にある方は蓋など見るかげもなく毀こわされていました。
この古墳のように、夫婦をともに葬ったのか、一つの石廓せっかくのなかに二つの石棺を並べてあるのは比較的に珍らしいこと、すっかり荒らされている現在の状態でも分かるように、これらの石棺はかなり精妙に古代の家屋を模してつくられているが、それはずっと後期になって現われた様式であること、それからこの石棺の内部は乾漆になっていたこと、そして一めんに朱で塗られてあったと見え、いまでもまだところどころに朱の色が鮮やかに残っているそうであること、――そういう細かいことまでよく調べて来たものだと君の説明を聞いて僕は感心しながらも、さりげなさそうな顔つきをしてその中をのぞいていました。その玄室の奥ぶかくから漂ってくる一種の湿め湿めとした気とともに、原始人らしい死の観念がそのあたりからいまだに消え失せずにいるようで、僕はだんだん異様な身ぶるいさえ感じ出していました。」
僕が再訪した時は、かなりの人が来ており、なかなかエッセイの雰囲気を味わうことはできなかったのだが、エッセイにもある通り、大きな石室の中に、2つの家型石室が並んでいるのを覆屋の柵越しに見ることができた。
石室の内部は、切り石で作られており、上部に行くほど狭くなっている。石全体の漆喰を塗っていたようで、ところどころ禿げた様子が見ることができる。
なお、手前の方の石棺は、全面を破壊されている。「石棺の内部は乾漆になっている。」と書かれているのだが、懐中電灯を持っていたのだが石棺の内部まで光が差さず、観察できなかった。
菖蒲池古墳については、7世紀中ごろの築造だと言われている。大きさは、近年の発掘調査の結果、一辺約30mの方墳であることが判明している。また、古墳を作る上では、丘陵の南側を削って整地をしたうえで造られており、風水思想にかなったものである。堀割りも見つかっており、敷石が敷かれていたという。また、墳丘については、版築が見つかっている。敷石や版築は当時の宮殿や寺院などで使われている当時の最新の土木技術であり、限られた遺跡でしか見つかっていないらしい。(このときは、剥ぎ取った版築を、歴史に憩う橿原市博物館で見ることができた。)
また、横穴式石室については、羨道部分を描いているが、長さ約7m、幅2.6m、高さ2.6mとのこと。同じく飛鳥地方にある岩屋山古墳との類似を指摘する声もある。
同じ丘陵上に、藤原宮の頃の遺構が見つかっており、早くもこの時代に、菖蒲池古墳の破壊が始まっているとのこと。ということは、7世紀の中ごろまでは、権勢を誇り、持統天皇の頃には勢力を失った豪族の墓であるいうことまでは言えそうだ。
ちょっと「古墳」というエッセイに立ち戻ると、菖蒲池古墳から、古代人の他界観に触れている。少し引用をしてみたい。
「あの菖蒲池古墳についてかんがえて見ます。あの古墳に見られるごとき古代の家屋をいかにも真似たような石棺様式、――それはそのなかに安置せらるべき死者が、死後もなおずっとそこで生前とほとんど同様の生活をいとなむものと考えた原始的な他界信仰のあらわれ、或いはその信仰の継続でありましょう。しかし、僕たちが見たその古墳のように、その切妻形の屋根といい、浅く彫上げてある柱といい、いかにもその家屋の真似が精妙になってきだすのと前後して、突然、そういう立派な古墳というものがこの世から姿を消してしまうことになったのです。これはなかなか面白い現象のようです。勿論、それには他からの原因もいろいろあったでしょう。だが、そういう現象を内面的に考えてみても考えられないことはない。つまり、そういう精妙な古墳をつくるほど頭脳の進んで来た古代人は、それと同時にまた、もはや前代の人々のもっていたような素朴な他界信仰からも完全にぬけ出してきたのです。――一方、火葬や風葬などというものが流行はやってきて、彼等のあいだには死というものに対する考えかたがぐっと変って来ました。」
古墳に表れている他界観については、古代人が思う「あの世の世界」を再現しているのではないかと言われている。このあたりは、エジプトのピラミッドの世界観と一緒であるような気がする。
菖蒲池古墳のある丘陵の東側を眺めてみた。
写真のように堀辰雄がみた菖蒲池はすでに埋め立てられていて、新興住宅地になっていた。
石室へのルートも昔と変わっていて、西側にある奈良県立支援学校の方から入るようになっていた。
菖蒲池古墳は、国の史跡となっており、また世界遺産「飛鳥・奈良の宮都とその関連資産群」を構成要素として暫定リストに加えられている。
今度は、もう少し人がいない時期に行ってみたいな。
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