近鉄奈良駅の北に、近年、きたまちと呼ばれるエリアがある。奈良駅の南側に広がる元興寺の旧境内を中心に発達したならまちに対して、きたまちと称している。エリアには、東側には東大寺が広がり、北は、般若寺などの奈良坂一帯などを含んだ街である。江戸時代には、奈良の奉行所や代官所などがあり、官司街としても発達したところであった。
近鉄奈良駅から、商店街を通って、北へ向かう。商店街には、おしゃれなお店や書店、古書店が並び、いかにも近くに女子大学があるような街の風情がある。しばらく歩くと、国立奈良女子大学がある。もともとは、奈良奉行所があった場所である。
1908(明治41)年に開設された奈良女子高等師範学校を前身とする。その当時からの建物がいくつか残っている。現在、奈良女子大学記念館となっている建物と守衛室、正門がそれで、重要文化財に指定されている。
いかにも明治時代に造られた建築物で、もともとは講堂で使用されていた建物である。
2階建てで、一階には大小7室あり、二階全体が講堂となっている。中には、「百年ピアノ」と呼ばれる国内最古の演奏できるピアノもあるとのこと。歴史のある学校らしい、趣のある建物である。
記念館の前の庭に、奈良奉行所時代の唯一の遺構がある。
奈良奉行所で使われた井戸である。江戸時代、この場所に奈良奉行所があった。敷地はかなり広く、京都の二条城と同じぐらいの大きさがあったらしい。
そして、女子大の校地の中に、戦前の奉安殿が残っている。
この奉安殿は、1934(昭和9)年に、女子高等師範創立25周年を記念して同窓会から寄贈をされたもので、戦後、当時の教員がショウジョウバエの研究に必要だと主張して、GHQからの破壊を免れたという逸話が残っている。「戦争遺産」に一つであろう。
これが守衛室である。先ほども触れたが、設立時の建物で重要文化財である。
奈良女子大学を出て、北へ向かっていくと佐保川があり、法蓮橋という石橋がかかっている。
1931(昭和6)年に造られたものである。この橋を渡るとすぐ手前に聖武天皇佐保山南陵、仁正皇太后佐保山東陵がある。仁正皇太后というとあまり聞きなれないが、聖武天皇の皇后で知られる光明皇后のことである。
墓域を示す制札のある場所から拝所までの参道が一本道で長い。奈良市にある陵で、これだけの空間のあるところもまずないかもしれないなあ。おそらく御陵の前には眉間寺という聖武天皇を追善するために建てられたお寺があったと考えられる。残念なことに明治時代の廃仏毀釈により、廃絶し、現在では、跡形もないような状態になっている。(おそらく陵墓の敷地になっているので発掘調査もできないだろうなあ。)眉間寺にあったいくつかの仏像は、東大寺に移されているとのこと。
聖武天皇については、奈良時代の天皇。聖武天皇の使っていた物や身の回りの物などが光明皇后により、東大寺に奉納されたのが正倉院の御物である。
仁正皇太后(光明皇后)の御陵が、そのすぐ東にある佐保山東陵である。
地形の関係で、正面から拝することができないようになっている。
ただ、この二つの御陵が、本当に聖武天皇、光明皇后の墓所かというとかなり疑問とされる。中世にこの辺りには、松永久秀により、多聞山城という山城の城郭に取り込まれたと考えられている。眉間寺の存在から、おそらくこの丘には埋葬されたのかもしれないが、何とも言いようがないようである。この墓域内には、横穴式古墳が存在し、その古墳をもとに文久の修陵が行われたようである。
ちなみに仁正皇太后陵については、多聞城の一部ではないかと言われている。航空写真を見ると、聖武天皇佐保山南陵と仁正皇太后佐保山東陵の領域がハート形をしており、その真ん中を多聞城の堀割りが横切っているように見えるらしい。松永久秀は、なんて無粋なことをする奴だなあということになるのだろう。
ここからは、少し東に向かって、多聞山城の跡がある若草中学校へ向かうことにする。
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