ちょっと前になりますが、明日香村にある奈良県立養護学校の敷地内で、発掘されている小山田遺跡の現地説明会に参加した。新聞でも大々的に報道されたので参加者も多く、10時過ぎに現地に到着した時にはすでに長蛇の列ができていた。聞くところによると10時の開始時間を少し早めたらしい。僕も含めてだが古代史のファンというのは多く存在しているものらしい。養護学校の校門の前では、観光協会や奈良新聞社が出店を出していて、ちょっとしたイベントのような雰囲気を醸し出していた。
しいし
新聞では、石舞台古墳を上回る規模の最大級の方墳が発見された。そして、舒明天皇の最初に埋葬された滑谷岡の陵ではないかと大々的に報道された。ちなみに石舞台古墳は、墳丘は、約50m、外堤を入れると約80mにも及ぶ巨大な方墳である。それに匹敵するほどの古墳らしきものが見つかったということは、ものすごいことで、まだまだ、未知の世界は広がっているのだなと感じた次第。
■小山田遺跡全景
写真は小山田遺跡全景である。当日は仮設の見学用の通路が出土場所の前に造られていて、そこから遺跡を見ることになる。写真の左側が墳丘である。
■掘り割りと墳丘
掘り割りについては、貼石、敷石がしきつめられているが、ところどころ穴が開いたようになっているところは、校舎の造成により、敷石等が抜き取られた後だとのこと。おそらくは、造られた時はびっしりと隙間なく堀の底には敷石が、堤には貼石が巡らされていたのであろう。石舞台古墳でもよく観察してみると同じように敷石等が残っているところを見ることができる。
■敷石と板石
今回の発掘で発見されたもので、とにかく類をみない珍しいものとして敷石の上のテラス状のところに板石が階段状に巡らされていたことである。写真ではちょっとわかりにくいかもしれない。こういうのをどこかで見たなあと思っていたら、酒船石遺跡の石積みに似ている気がした。時代的にはちょっと酒船石遺跡の方が後になるのかな。ただ、現在、舒明天皇陵に治定されている段の塚古墳でも板石状の遺構があるのではないかとも言われている。残念なことに、宮内庁の管轄なため発掘はできないのだなあ。ただ、このような遺構を見ると、石舞台古墳よりは新しいような気がする。
■酒船石遺跡
ちなみに酒船石遺跡は、斉明天皇の頃、7世紀の中ごろの遺跡だと考えられている。
■崩れ落ちた石材
見学施設の北側には、崩れ落ちていた板石や敷石等と思われる石材が積み上げられていた。室生安山岩ということで、奈良の室生寺あたりから持ってきたのだろうか?別名榛原石とも言われており、酒船石遺跡や飛鳥寺でも使われていたとのこと。例の段の塚古墳でも出土したという話もある。
■石材を抜き取った後
遺跡の年代を確定するものは直接出土していない。掘り割りが埋没した時に流入した体積土の中から7世紀後半のものと考えられる土器が出土している。この辺りがこの遺構の年代の下限と考えられる。また、室生安山岩や結晶片岩は、7世紀中ごろの寺院や古墳に使われていることから、遺構が7世紀の中ごろにさかのぼる可能性もあるとのことである。
ちなみに、日本書紀によると、舒明天皇は、641年、在位13年で崩御し、皇極天皇の元年(642年)に滑谷岡(なめはさまのおか)に埋葬され、翌年押坂陵に改葬されたという。今回、小山田遺跡で発掘された遺構については、その舒明天皇の滑谷岡陵ではないかと言われている。時代的には、すれすれで重なる。または、菖蒲池古墳と併せて、蘇我蝦夷と入鹿の墓所ではないかとも言われている。しかしながら、滑谷岡については、明日香村の冬野付近という説もあり、ここが確実に、その地であるとも言えないようである。
小山田遺跡自体が古墳であるということは、この養護学校が建築される前に、土地の高まりがあったこと、この周辺の地形からいってほぼ間違いないとのこと。
■小山田遺跡全景
遺跡の肝心な場所は、まだ建物が建っており、この遺跡の全容が明らかになるのはこれから先の話になる。
■想像図
現場では、遺跡の想像図が掲示されていた。どんなものが出てくるだろう。まだまだ、飛鳥の謎は次から次へと出てくるのである。恐ろしいもんだ。
しいし
新聞では、石舞台古墳を上回る規模の最大級の方墳が発見された。そして、舒明天皇の最初に埋葬された滑谷岡の陵ではないかと大々的に報道された。ちなみに石舞台古墳は、墳丘は、約50m、外堤を入れると約80mにも及ぶ巨大な方墳である。それに匹敵するほどの古墳らしきものが見つかったということは、ものすごいことで、まだまだ、未知の世界は広がっているのだなと感じた次第。
■小山田遺跡全景
写真は小山田遺跡全景である。当日は仮設の見学用の通路が出土場所の前に造られていて、そこから遺跡を見ることになる。写真の左側が墳丘である。
■掘り割りと墳丘
掘り割りについては、貼石、敷石がしきつめられているが、ところどころ穴が開いたようになっているところは、校舎の造成により、敷石等が抜き取られた後だとのこと。おそらくは、造られた時はびっしりと隙間なく堀の底には敷石が、堤には貼石が巡らされていたのであろう。石舞台古墳でもよく観察してみると同じように敷石等が残っているところを見ることができる。
■敷石と板石
今回の発掘で発見されたもので、とにかく類をみない珍しいものとして敷石の上のテラス状のところに板石が階段状に巡らされていたことである。写真ではちょっとわかりにくいかもしれない。こういうのをどこかで見たなあと思っていたら、酒船石遺跡の石積みに似ている気がした。時代的にはちょっと酒船石遺跡の方が後になるのかな。ただ、現在、舒明天皇陵に治定されている段の塚古墳でも板石状の遺構があるのではないかとも言われている。残念なことに、宮内庁の管轄なため発掘はできないのだなあ。ただ、このような遺構を見ると、石舞台古墳よりは新しいような気がする。
■酒船石遺跡
ちなみに酒船石遺跡は、斉明天皇の頃、7世紀の中ごろの遺跡だと考えられている。
■崩れ落ちた石材
見学施設の北側には、崩れ落ちていた板石や敷石等と思われる石材が積み上げられていた。室生安山岩ということで、奈良の室生寺あたりから持ってきたのだろうか?別名榛原石とも言われており、酒船石遺跡や飛鳥寺でも使われていたとのこと。例の段の塚古墳でも出土したという話もある。
■石材を抜き取った後
遺跡の年代を確定するものは直接出土していない。掘り割りが埋没した時に流入した体積土の中から7世紀後半のものと考えられる土器が出土している。この辺りがこの遺構の年代の下限と考えられる。また、室生安山岩や結晶片岩は、7世紀中ごろの寺院や古墳に使われていることから、遺構が7世紀の中ごろにさかのぼる可能性もあるとのことである。
ちなみに、日本書紀によると、舒明天皇は、641年、在位13年で崩御し、皇極天皇の元年(642年)に滑谷岡(なめはさまのおか)に埋葬され、翌年押坂陵に改葬されたという。今回、小山田遺跡で発掘された遺構については、その舒明天皇の滑谷岡陵ではないかと言われている。時代的には、すれすれで重なる。または、菖蒲池古墳と併せて、蘇我蝦夷と入鹿の墓所ではないかとも言われている。しかしながら、滑谷岡については、明日香村の冬野付近という説もあり、ここが確実に、その地であるとも言えないようである。
小山田遺跡自体が古墳であるということは、この養護学校が建築される前に、土地の高まりがあったこと、この周辺の地形からいってほぼ間違いないとのこと。
■小山田遺跡全景
遺跡の肝心な場所は、まだ建物が建っており、この遺跡の全容が明らかになるのはこれから先の話になる。
■想像図
現場では、遺跡の想像図が掲示されていた。どんなものが出てくるだろう。まだまだ、飛鳥の謎は次から次へと出てくるのである。恐ろしいもんだ。
長年の疑問が解消されれば幸いです。
ttp://6928.teacup.com/kongonoyotei/bbs ( 閲覧パス 2034 )