和泉黄金塚古墳の見学会の終了後、北部リージョンセンターで解散。北信太駅までぶらぶらと歩くことにした。府道30号線を北上していくと、左手にこんもりとした小さな森があった。これが信太貝吹山古墳である。
信太貝吹山古墳は、いつもはフェンスで囲われており、門に鍵がかかっているため、近くで見ることができない。ただ、この日は、見学会にあわせて教育委員会の方が門を開けてくれていた。
墳丘は、雑草や樹木に覆われているため目視することはできないが、後円部の丸い形だけは確認できた。墳丘は、全長60mの帆立貝型古墳で、北西に向けて築造されており、短い前方部が府道に向けて伸びている感じである。
航空写真などで確認すると周囲に周濠の跡が残っているのがわかる。
古墳は、5世紀前半に作られたと考えられているが、発掘調査等が行われていないため詳細は不明である。先の和泉黄金塚古墳の何世代か後に作られたものであろう。ちなみに和泉北部の首長墓については、和泉黄金塚古墳や信太貝吹山古墳などを含む北群と丸笠山古墳などの南群に分けられ、交互に首長を出し合ったと考えられている。
信太貝吹山古墳の西側は、駐車場になっていた。おそらくこの辺りに周濠があったと思われる。
貝吹山という名称については、江戸時代、千原騒動と呼ばれる農民一揆の際、参加した農民たちは、法螺貝の合図でこの地に集まったことに由来する。
和泉北部の古墳については、この他にも富木車塚古墳などいくつかの首長墓があったのだが、高度成長期にほとんどの古墳が、破壊されてしまった。何とも残念なことである。
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