平田梅山古墳の西側の丘の上に、欽明天皇の孫で、皇極・斉明天皇、孝徳天皇の母とされる吉備姫王の墓と伝えられるものがある。
この吉備姫王の墓とされる塚であるが、どうも古墳ではないという話である。幕末、平田梅山古墳を修陵した際に延喜式等の記載を参考に造り出されたのではないかと言われている。
ちなみに奈良県の遺跡地図では、石造物所在地とされており、古墳とは認識されていないようである。
この吉備姫王墓の域内に猿石と呼ばれる不思議な造形の石像が置かれているのは知られている所である。
猿石は、四体あり、それぞれに名前が付けられている。
例えば、上の写真の石像は、「女」と呼ばれているものである。
これは、「山王権現」。
「僧」(左)と「男」である。
いずれもどこかしら異国の雰囲気を持った異形の石像である。
「猿石」という名称は、江戸時代につけられたものではあるので、この石像とは何の関係もないものである。
これらの石像は、もともとこの場所にあったのではなく、平田梅山古墳の南側の田んぼから掘り起こされたものであり、一時、同古墳の上に置かれていたが、幕末の修陵の際にこの地に移されたものであるとのこと。
よく見ると、どことなく雰囲気が、飛鳥資料館の石人像と似ている気がする。
猿石については、以前このブログ「飛鳥の石造物② ~猿石~」でも取り上げている。
吉備姫王墓から元の道に戻って、平田梅山古墳の南側にある東西の遊歩道を元来た方向に歩いていくと、四つ辻の向こうにカナヅカ古墳の姿が見える。
カナヅカ古墳については、現在欽明天皇陵の陪冢に指定されており宮内庁が管理している。
ただし、この古墳については、明治時代の初めごろまで開口しており、また、1890年には石室が解体されようとしたこともあったようである。
そのため、この古墳の石室等については、若干状況がわかっているようだ。
カナヅカ古墳の石室は、南側に向かって開口している両袖式の横穴式石室であり、奥壁は2段、側壁の2段、羨道部は1段となっており、いわゆる岩屋山式の横穴式石室である。
墳丘は、二段築造の一辺約35mの方墳である。
そして、カナヅカ古墳の被葬者としては、先ほど訪れた吉備姫王であるという説が有力である。
確かに延喜式には、欽明天皇陵の兆域内に吉備姫王の墓があるとされているので、むしろカナヅカ古墳の方が築造時期から考えても吉備姫王の墓とする方が妥当だと言えそうである。
そして、欽明天皇陵の陪冢にはあまり知られていないが後円部の北側、森の中に一つ、経塚古墳と呼ばれる小古墳があるようだ。
ここまで来ると結構いい時間になっていたので、飛鳥歴史公園内にある壁画修理作業室に戻ろう。
朝墳活、古墳が朝の光を浴びて、緑の色が一層鮮やかに見えて、清々しくなかなか気持ちがいい。しかし9時を過ぎたあたりから、陽ざしがきつくなり、周りの温度も上がり始めた。そうなるとさすがに限界だね。(笑)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます