休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

平野郷を歩く

2010-10-16 00:43:41 | 史跡を歩く

 三連休の最終日、家でごろごろして本ばかり読んでいるのにも飽きたし、また機種変更した携帯電話に歩数計が付いていてちょっとうれしがって歩いているということもあり、大阪の平野郷を歩いてみることにした。

 昔、平野周辺に住んでいたこともあり、懐かしい風景を見てみるのもいいかなという訳で決行。
 写真は、杭全神社の裏手に残る環濠の跡。昔、大和路線に乗っているときに、この濠を見るたびにこれは一体何の跡であろうと思っていたもんです。
 だいたいその当時(小学生ぐらいの時ですが)平野郷がそんなに歴史のある町だとはついぞ思わなかったですね。

 平野というところは戦国時代には、堺と並ぶ一大環濠都市だったそうである。ただし大坂夏の陣の際、ほとんどが焼き払われたとのことである。
 中世の盛んな頃の面影を偲ぶものとしては、杭全神社の本殿ぐらいの物であろうか。杭全神社の本殿は、第2、第3本殿が天正年間に建築、第1本殿が元禄年間の建築物である。
 現在、国の重要文化財に指定されているが、残念ながら改修中で、見ることは出来なかった。


 その昔、中学生のころ、確かこの神社を写生にきた記憶がある。何を書いたのか全く覚えていないが、意外と立派な神社なんだなと感じ入った覚えがある。
 杭全(くまた)と読みますが、おそらく渡来人と関係があるのかもしれない。確かこの辺りは渡来人を思わせる地名が多い、百済という地名も残っている。
 そういえば、平野を開墾した坂上氏は渡来人を祖先に持つ家系であった。(応神天皇の時、渡来した阿智使主の子孫だという。)坂上田村麻呂の次男広野が平野を開墾したのだという。末吉家に代表される平野七名家はこの子孫だという。

 話は戻す。杭全神社の入り口に、日露戦争の記念碑があり、ようよう見てみると石碑の文字は山県有朋筆となっておりました。



 杭全神社は、町の鎮守の森という感じがした。鎮守の森、なかなか大阪の様な都市ではないんですよね。大切にしないといけないもののような気がする。

 杭全神社を出て、平野郷へ。道標にしたがって歩いていった。


 商店街に入ると、途中全興寺というお寺がある。いきなりうそをつくと舌を抜くぞとの看板。これはパラダイスの匂いがする。そういえば舌をぬかれるって小さい頃よく言われたけど、今の子どもたちは言われてるのかしらん。はっきり言って、今まで出なんぼほど舌を抜かれていることやら。

 入ってみると、いきなり西国33ヶ所めぐりの観音さんがずらり。その奥には水かけ不動が立っておりました。

 特に信心深くはないのですがおもわず手を合わせる私でございました。
 さらに入っていくと、平野まちづくり博物館に登録されている駄菓子博物館やら平野の音博物館というものがあった。昔のメンコなどが飾られていた。(メンコって、私の子どもの頃はべったんって言ってましたよね。)
 その他、地獄堂があったり、ほとけのくにという地下室があったり、仏足石が飾ってあったり狭い境内にこれでもかというくらいいろんなものがあった。
 また境内では子どもがいっぱい遊んでました。これもあんまり見ないような光景ではあった。

 このお寺の面白さは行ってみないとわからないか・・・。
 ただ、入り口の看板を読んでいると聖徳太子の頃からある由緒正しいお寺ではある。

 全興寺の横の新聞屋さんがこれ。一体いつの時代も建物なんでしょう。朝日新聞のマークがまぶしい。

 ここも平野まちづくり博物館に登録されているらしい。残念ながらこの日は閉まっていた。

 商店街を東に行くと、平野公園が入り口に地蔵堂が建っていた、ここは樋尻口門という木戸口があり、平野郷と外部を繫ぐ木戸口が昔13箇所あり、そのうちの一つだという。こういう外部との境界には、お地蔵さんはつき物で、実際平野郷の13木戸口の跡には地蔵堂がちゃんと残っている。
 この地蔵堂の道を挟んだ向いには、大坂夏の陣で戦死した武将のお墓があった。大坂夏の陣といえば、ここで徳川家康はあわや爆死しかけたという伝説が残っている。家康の代わりにお地蔵さんがぶっとんだっけ。
 この平野公園には河内音頭発祥の地という碑文もある。あれっ河内音頭発祥の地はお隣の八尾市ではなかったか。ちなみにどちらが本家なんかという戦争は勃発している様子はない。
 小学校の頃、ここにスーパーマーケットがあったが、マンションになっていました。昔日の想いではある。
 お菓子の量り売りのお店が残っていて、買ってみればよかった。

 商店街を戻っていって、西側を抜けると、南海電車平野駅跡があった。昔、チンチン電車が天王寺まで走っていたんですが、都市化の波とともに廃止されその跡が残るだけである。

 今残ってれば、一層ノスタルジックな街になったであろうな。合理化、経済化の波の中でいろいろなものを大阪という街は失ったきた。歴史的に見れば、京都に匹敵する文化の街であったのだが、そんな面影はないなあ。

 学生の頃、木津川計教授が大阪、京都、神戸を比較して、大阪は「ばびぶべぼ」、京都は「はひふへほ」、神戸は「ぱぴぷぺぽ」とおっしゃておられたのを思い出した。



 ここからJR平野駅に戻る途中に見つけた本屋さん。う~ん、昭和ですねえ。


 杭全神社の裏にある墓地にあった坂上春子のという女性の墓があった。坂上田村麻呂の娘で桓武天皇の妃となった方だそうだ。覆屋の中にかなり古い摩滅した五輪等らしきものがあった。周囲には坂上家、末吉家累代の墓があった。

 ここまで来るとJR平野駅はもうすぐ。
 よく歩いた。またノスタルジックな世界を堪能した半日であった。
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