京都は東山、三十三間堂のすぐ東側に、「日本一の大天狗」と言われた後白河天皇の御陵がある。
三十三間堂の東大門の道を挟んで向かい側、伏見城の血天井で知られる養源院と法住寺というお寺の間にある細い通路を入っていくことになるのだが、通路の入り口にある鉄柵が、平日しか解放されないため、なかなか見ることができない場所になっている。
後白河天皇は、鳥羽天皇の皇子で、母は待賢門院璋子である。弟、近衛天皇が亡くなった後、即位し、天皇となった。即位した翌年に保元の乱が勃発し、武者の世が始まることになった。その後在位二年ほどで退位し、院政を開始する。ただし、当初は、後白河院政と二条親政とが対立していたともいう。平治の乱はその帰結。
その後、二条天皇の死後、六条、高倉、後鳥羽と三代にわたり院政を行った。後白河院政は、ご存知の通り平氏や源氏などの武家が台頭しつつある激動の時代であり、その大変動の時代をあっちつき、こっちつきという感じで乗り切ったという感じである。
死後、法住寺殿にある法華堂に埋葬されている。現在は、後白河天皇が眠る法華堂とその周辺に埋葬された江戸時代の皇族の墓も一緒に管理されている。これは、法住寺の近くの妙法院門跡の歴代法親王の墓所が法住寺にあったためである。
現在は、法住寺とは分離して管理されているが、明治までは、法住寺によって守られてきており、拝所の前には法住寺と書かれた手水鉢が置かれている。
院政期になると、天皇の遺骨は、法華三昧堂に埋葬されることが増えてきている。ただし、建物自体は、その時代のものではなく江戸時代の再建であり、文久の修陵の時には、改めて補修を受けているらしい。
この後白河天皇を埋葬した法華堂の北側には、寵愛した建春門院平滋子を埋葬した法華三昧堂があったのだが、いつの頃にか失われ、残念ながら、所在不明となっている。
後白河天皇陵については、御陵の選定にあたって、発掘されており、天皇の遺骨を納めた石櫃が見つかったという。古代、中世の天皇としては、珍しく宮内庁の指定がほぼ間違いのない天皇陵の一つである。
陵を訪れた時は、三月の末、ちょうと陵前の桜の花が満開であった。
陵の前には、法住寺が立っており、鎌倉時代からの法灯を今に伝えている。そして、門前には、後白河天皇が集めた歌謡集「梁塵秘抄」の中の有名な歌「遊びやせんとや、うまれけん」と刻まれた歌碑が建っている。
法住寺の前に道を南へ下ると、三十三間堂の南大門がある。普通の住宅の中にこういう歴史的建造物が、それとなくあるのが京都なんだなあ。遠くには京都タワーが見える。
そのすぐそばには、坂本龍馬の寓居跡の真新しい石碑が立っていた。
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